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Detail Kata

藤原朝隆

保延5年(1139年) 正月24日:信濃守、止蔵人権佐。7月28日:止大進(院号)。8月17日:内東宮昇殿 保延7年(1141年) 5月17日:除籍(依不勤最勝講堂童子也)。10月20日:還昇 永治元年(1141年) 12月2日:新帝昇殿、権右中弁 永治2年(1142年)

Kata Terkait

藤原兼隆

正月24日:兵部大輔(依夢想辞少将所任大輔)。10月10日:従四位上(東三条院御賀) 長保4年(1002年) 正月30日:右近衛中将(成房出家替)、従三位(東三条院御骨荷持賞。越階) 長保6年(1004年) 正月24日:兼近江権守 寛弘5年(1008年) 正月28日:参議、右中将如元 寛弘6年(1009年) 正月28日:備中守

藤原隆信

藤原 隆信(ふじわら の たかのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族・歌人・画家。藤原北家長良流、皇后宮少進・藤原為経(寂超)の子。官位は正四位下・左京権大夫。 母・美福門院加賀の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。

藤原道隆

『光る君へ』(2024年、NHK大河ドラマ、演:井浦新) [脚注の使い方] ^ 当時は冠や烏帽子など被り物を常時着けるのが礼儀であり、無帽の頭を晒すことは非常に恥ずべきことだった。ましてや始めから無帽で人前に出ることは、はなはだ礼を失したふるまいとされた。 ^ 当時猛威を振るった疱瘡のため、済時や朝光がいずれも道隆

藤原為隆

刻薨去。臨終は『安住正念』と評された。享年61。 『後拾遺往生伝』によれば毎回朝議にあったとされる。さらに、資性倜儻(才気があり優れている)、才器軼人(才器で優れている)、職事三代、可謂独歩(職事三代独歩と謂うべし)と評されている。 『公卿補任』による。 応徳3年(1086年) 11月21日:六位蔵人

藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。官位は正二位・中納言。 一条朝初頭の永祚元年(989年)11歳で元服して従五位下に叙爵し、翌永祚2年(990年)正月に侍従に任官する。同年7月に右兵衛権佐に任ぜら

藤原顕隆

「左衛門権佐顕隆右少弁に任ぜらる、年二十八云々。世人耳目を驚かす」『中右記』 ^ 『愚管抄』巻4 ^ 「天下の政は此の人の一言に在る也、威一天に振い、富四海に満つ。世間の貴賤、傾首せざるはなし。」『中右記』 槇道雄「夜の関白と院政」『院近臣の研究』続群書類従完成会、2001年 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年 『公卿補任

藤原光隆

『平家物語』巻八「猫間」においては、寿永2年(1183年)に源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲のやかたで光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食

藤原行隆

5年)左少弁を歴任する。しかし、同年に二条天皇が崩御し、翌永万2年(1166年)二条親政派が瓦解すると行隆は解官されてしまい、以後長年に亘って不遇を託つ。 治承3年(1179年)に平清盛によるクーデター(治承三年の政変)が発生すると、右中弁・平親宗、右少弁・平基親と2名の弁官が解官されたことに伴って

藤原隆祐

隆祐(ふじわら の たかすけ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての貴族・歌人。藤原北家良門流、従二位・藤原家隆の子。官位は従四位下・侍従。歌人として将来を嘱目されたが、宮廷歌壇では恵まれずに大成しなかった。 後鳥羽院の歌壇で活躍し、正治2年(1200年)より歌合に参加。『遠島御歌合』では父・家隆や姉妹の土

藤原隆佐

父:藤原宣孝 母:藤原朝成の娘 妻:藤原宣雅の娘 男子:藤原忠基 妻:藤原泰通の娘 男子:藤原宣実 男子:藤原保房(?-?) 生母不明の子女 男子:隆尊 ^ 『御堂関白記』長和5年3月2日条 ^ 『尊卑分脈』高藤公流 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

藤原隆忠

家の官職を追い越した。やがて、承元元年(1207年)に左大臣、建暦元年(1211年)には従一位に昇り、承久の乱直前の承久2年(1220年)に出家して官界から引退した。 近年では、『六代勝事記』の作者として有力視されている。 父:松殿基房 母:三条公教の娘 - 上西門院女房 妻:源通家の娘 長男:藤原基忠

藤原隆方

男子:猷乗 女子:藤原光子(1060-1121) - 藤原公実室 女子:康資王室 女子:藤原仲実妻 ^ 藤原南家永業(永頼孫)の男。 ^ 『今鏡』すべらぎの上 第一 司召 ^ 『大記』承暦3年正月9日条 竹鼻績『今鏡 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

藤原忠隆

好み、馬術にも優れるなど、武の道においても一目置かれる存在であり、平忠盛ら武人とも広く交流した。信西も『本朝世紀』の中において「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹、犬を好む。人がため施しを好み、その報いを望まず。世、その態度に伏す」と述べ、その器量の大きさに称賛を送っている。

藤原隆季

に及ぶ反平氏公卿・近臣を解官、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止した(治承三年の政変)。その中には、清盛の異母弟・平頼盛、娘婿・花山院兼雅も含まれていた。この時、隆季は政変で失脚した大宰大弐・藤原親信の後任として大宰帥に任じられることになり世の非難を浴びた。正帥は「親王任ずる所の官」で権帥・大

藤原信隆

のぶたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家道隆流、右京大夫藤原信輔の子。後鳥羽天皇の外祖父。従三位・修理大夫。贈従一位・左大臣。七条修理大夫と号す。坊門家の祖であり、坊門 信隆とも記される。 後白河上皇の近臣である一方、平清盛の娘を妻とした関係で、親平家派の廷臣としても活動する。応保元年(1161年)には、

藤原親隆

応保元年(1161年) 9月15日:参議 応保2年(1162年) 正月27日:兼近江権守。2月16日:恐懼(依不出仕)。2月30日:被免恐懼 長寛元年(1163年) 8月22日:出家(法名大覚) 永万元年(1165年) 8月23日:薨去 父:藤原為房 母:法橋隆尊の娘(藤原忠通の乳母)

藤原隆宗

女子:隆子または宗子 - 典侍、藤原家保室 生母不詳の子女 男子:応源 男子:隆助 ^ a b c d 『魚魯愚抄』 ^ a b 『近衛府補任』 ^ 『大間成文抄』341 ^ 『為房卿記』 ^ 『大間成文抄』342 ^ 『魚魯愚抄』下3-174 ^ 『中右記』 ^ 『後二条師通記』 ^ a b c d 『中右記』 ^

藤原朝狩

その記念碑として多賀城碑(天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣朝獦修造)を建てている。 位人臣を極め栄耀栄華を誇った仲麻呂一族だが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになる。仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇

藤原朝忠

物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われる。 ポータル 文学 ウィキクォートに藤原朝忠に関する引用句集があります。 『公卿補任』による。 延長2年(924年) 2月1日:左近衛将監(昇殿労)