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사전

단어 상세정보

菴

[あん]
(1)草葺(ブ)きの小家。 僧侶・世捨て人・風流人などの住む, 質素な小屋。 いおり。 草庵。
「~を結ぶ」
(2)雅号や住まい・料亭の名などに添えて接尾語的に用いる語。
「芭蕉~」

菴

[いおり]
(1)僧侶や世捨て人などが住む粗末な小屋。 庵室(アンシツ)。 いお。
「~を結ぶ」
(2)小さな家。 粗末な家。 また, 自分の家を謙遜していう語。
(3)農作業などのための仮小屋。
「秋田刈る旅の~にしぐれ降り/万葉2235」
(4)軍隊の宿営地。 軍営。 [和名抄]
(5)家紋の一。 {(1)}を図案化したもの。
(6)「庵看板」の略。

관련 단어

無鄰菴

第40巻第2号(2011年2月5日発行)東京大学出版会、46ページ。 ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 539-540(原本の漢字表記は旧字) ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 541(原本の漢字表記は旧字) ^ 徳富蘇峰編述 1969, p. 538-544「無鄰菴の対露会議」 ^ 岡義武 1958

明菴栄西

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

月菴宗光

兵庫県朝来市の大明寺の境内に球形の石がある。元は寺の北西字丸石の、溪水が石を繞って流れる地に在った。月菴は黒川に入るや日夜この石上に趺坐した。よって坐禅石という。後年、黒川ダムへの水没を免れるため大明寺に運ばれた。土地の伝承によれば、黒川周辺の村々ではしばしば狼の被害にあい困っていた。ある日、座禅

希菴玄密

の岩村城を包囲して開城させた。(岩村城の戦い)。 信玄は大圓寺に居る希菴に対し、恵林寺へ戻るように再三使者を送り要請したが希菴は応ぜず、「老來一枕黒聒餘、使者敲門頻起予、但恨風流賢守識、閑名幾度上除書」と詩を書いて返答とした。その答辞を見て信玄は激怒し秋山虎繁に命じて希菴の殺害と大圓寺の破壊を命じた。

花月菴流

げ、萬福寺との縁もあったことから煎茶に興味を持つようになる。 やがて、屋敷内に茶亭「花月菴」を作り、庭に陸羽、廬同、売茶翁の石像を祀るなど文人趣味に沈溺、その傾倒ぶりが公家や武家にも知られるほどとなり、天保9年(1838年)9月、時の一条家当主から「煎茶家元」の揮毫を賜る。

安東省菴

幅広い学問に通じ、学派に偏らない本来の精神を追求し、生活は清貧に甘んじ、実学を信念とし、論語のような生活態度をしたという。 伊藤東涯から“西海の巨儒”と呼ばれた。 当初は朱子学一辺倒であったが、朱舜水に諭され、陽明学なども学んだ。これは、彼の人格育成に大いに役に立った。気に対する概念も学んだという。

阿史那菴羅

阿史那 菴羅(あしな あんら、拼音:āshǐnà ànluó、生没年不詳)は、突厥の可汗。他鉢可汗の子。ソグド語による原音はマガ・ウムナ・カガン。 581年、他鉢可汗が病にかかり、臨終の際、子の菴羅に「吾の父子関係において親しみ過ぎてはならないと聞いた。だから、吾の兄(木汗可汗)はその子(大邏便)

宇田川榕菴

宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。 大垣藩(現在の岐阜県大垣市)の江戸詰め医、江沢養樹の長男。父の師匠である藩医宇田川

曽我二直菴

曽我 二直菴(そが にちょくあん、生年不詳 - 明暦2年(1656年)以降)は、江戸時代初期の絵師。通称は左兵衛、法号は直庵順蝿。 『扶桑名画工譜』『皇朝名画拾遺』『画乗要略』では、曽我直庵の子とされる。直庵から印章を継承し、明らかに直庵画の影響下にある作品や、「曽我直菴」署名のある二直

郁久閭菴羅辰

文宣帝はこれを追撃し、菴羅辰の妻子および生口三万余人を捕えた。菴羅辰は巌谷を越えて逃げ切ることができた。 ^ 『資治通鑑』卷第一百六十五「時柔然軍猶盛,阿那肱以兵少,請益,帝更減其半。阿那肱奮撃,大破之。菴羅辰超越巌谷,僅以身免。」 『北史』列伝第八十六 蠕蠕 『資治通鑑』卷第一百六十五 梁紀二十一