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단어 상세정보

藤原顕実

勅答使を務む。 寛治4年(1090年)正月28日:太皇太后宮亮・周防権介を兼ぬ(少将労)。 寛治8年(1094年)3月28日:右近衛中将に転ず。兼官如元。 嘉保2年(1095年) 正月7日:正四位下に叙す(臨時)。 正月28日:備後介を兼ぬ(少将労)。 2月15日:祈年穀奉幣にて奉幣使に任ず。

관련 단어

藤原顕光

は儀式進行の手違いや失態が多く、またも公卿らの嘲笑を買い、実資は『小右記』に「(失態を)いちいち書いていては筆がすり切れる」と書き残し、道長も「至愚之又至愚也」と罵倒したと聞き記している。この時代は典礼儀式が最も重んじられ、それをこなせない顕光は無能者とされ公家社会から軽んじられたとされる。ただし、

藤原顕季

鴫のふすかり田にたてる稲茎の否とは人のいはずもあらなん(後拾遺和歌集) み山いでてまだ里なれぬ時鳥うはの空なる音をやなくらん(金葉和歌集) 夏衣すそのの草葉ふく風におもひもあへず鹿やなくらん(金葉和歌集) わが恋は烏羽にかく言の葉のうつさぬほどはしる人もなし(金葉和歌集) わぎもこが声たちききし唐衣その夜の露に袖はぬれにき(金葉和歌集)

藤原顕家

建保3年(1215年)8月16日:出家。年63。 父:藤原重家 母:藤原家成の娘 妻:源師兼の娘・院女房新大夫局 男子:藤原知家(1182-1258) 妻:不詳(生母不明) 男子:藤原清家 次男:藤原顕氏(1207-1274) 男子:藤原重継 男子:尊家 ^ または14日。 ^ 『山丞記』建久元年6月19日条

藤原顕隆

「左衛門権佐顕隆右少弁に任ぜらる、年二十八云々。世人耳目を驚かす」『中右記』 ^ 『愚管抄』巻4 ^ 「天下の政は此の人の一言に在る也、威一天に振い、富四海に満つ。世間の貴賤、傾首せざるはなし。」『中右記』 槇道雄「夜の関白と院政」『院近臣の研究』続群書類従完成会、2001年 『世界大百科事典 第2版』平凡社、2005年 『公卿補任

藤原顕輔

顕輔卿集(顕輔集)』がある。 小倉百人一首 79番 秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ (『新古今和歌集』秋・413) 父:藤原顕季 母:藤原経平の娘 妻:高階能遠の娘 男子:藤原顕賢 男子:藤原清輔(1104-1177) 妻:藤原盛輔の娘 男子:藤原頼輔 妻:不明(家女房)

藤原顕綱

男子:藤原有佐(?-1131) - 後三条天皇の落胤 生母不詳の子女 女子:藤原長子(1079-?) - 讃岐典侍 ^ 『平安遺文』1083 ^ 『魚魯愚鈔』 ^ 『内裏歌合』 ^ 『大記』 ^ 『尊卑分脈』 ^ 『今鏡』137段による。 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年 宮崎康充編『国司補任

藤原顕時

父:藤原長隆 母:高階重仲の娘 妻:藤原有業の娘 長男:藤原行隆(1130-1187) 妻:平忠盛の娘 男子:藤原盛方(1137-1178) 妻:藤原信輔の娘 男子:藤原盛隆 男子:藤原有隆 生母不明の子女 男子:藤原時光 男子:顕運 男子:道顕 女子:藤原是憲室

藤原友実

病にかかったときの様子が書かれており、風病の治療法を探していた師通は、友実を呼んで『世説第三』を調べさせた所、湯治が良いとあったという。著作に『野沢佳趣』。 父:藤原季綱 母:藤原親経女 妻:大学頭棟綱女 男子:藤原能兼 - 子に藤原範兼・範季ら。 女子:源仲政室 - 源三位頼政の生母。 ^ 続群書類従完成会

藤原経実

宮権大夫を止める。嘉保3年(1096年)1月、権中納言に任ぜられる。 承徳2年(1098年)1月、正二位に昇叙。 承徳3年(1099年)6月28日、舎兄である関白内大臣藤原師通が薨去。 康和2年(1100年)7月17日、中納言に転正。 康和3年(1101年)2月13日、前関白太政大臣藤原師実が薨去したため喪に服し、3月15日に復任した。

藤原実方

ウィキクォートに藤原実方に関する引用句集があります。 藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。 父・定時が早逝したため、叔父で大納言・藤原済時の養子となる。

藤原頼実

らに後鳥羽上皇の乳母・卿局を室に迎えて、夫妻で後鳥羽院政の中枢に立った。 頼実の望みは、父・経宗の如く左大臣・一上として太政官を統轄することにあったが、後鳥羽院が大臣降任の例はないと難色を示したため、左大臣就任は諦めざるを得なかった。一方、もう一つの望みである娘・麗子の入内については室の協力もあり、

藤原実頼

をみなへし 見るに心は なぐさまで いとど昔の 秋ぞこひしき 続古今和歌集 池水に 国さかえける まきもくの たまきの風は いまものこれり 新千載和歌集 鶯の やどの花だに 色こくは 風にしらせで しばしまたなむ 私家集 清慎公集 逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな [脚注の使い方]

藤原実資

^ 『小右記』寛和元年4月28日条 ^ 『小右記』万寿2年3月8日,20日条の四十九の厄を迎えたという記述による 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年 佐々木恵介『天皇の歴史3 天皇と摂政・関白』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。ASIN B0

藤原忠実

いった経緯のためか、忠通の六男の兼実は文治年間になって先の戦乱は忠実を含めた保元の乱の怨霊が起こしたいのではないか?と推測(『玉葉』文治2年2月18日条)し、忠通の十一男慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述し

藤原師実

寛治5年(1091年):藤原清衡より摂関家に初入貢(軍馬2蹄)。 寛治8年(1094年)3月8日:関白を辞す。後任は子の師通。 康和3年(1101年) 1月29日:出家。法名は法覚。 2月13日:薨去。享年60。 父:藤原頼通 母:藤原祇子 - 藤原頼成娘 妻:源麗子 - 藤原信家養女、実は源師房娘 男子:藤原師通(1062-1099)

藤原信実

藤原 信実(ふじわら の のぶざね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公家・画家・歌人。藤原北家長良流、左京権大夫・藤原隆信の子。官位は正四位下・左京権大夫。 父・隆信と同様に絵画・和歌に秀で、水無瀬神宮に伝わる国宝『後鳥羽院像』は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねる事で主体の面影を捉える

藤原実政

男子:藤原清宗 生母不明: 男子:勝源 女子:藤原有信妻 女子:藤原公実室 ^ a b 『今鏡』すべらぎの上 第一 司召 ^ 『今鏡』『十訓抄』等 ^ 左中弁について、正員(左中弁)には権官(権左中弁)を経て任官されることが慣例となっていた(和田英松『新訂 官職要解』講談社学術文庫、1983年、65頁)。

藤原定実

元永本古今和歌集 - 伝源俊頼 巻子本古今和歌集 - 伝源俊頼 下絵拾遺抄切 - 伝源俊頼。『拾遺抄』巻一・三の8点が知られる巻物の断簡。銀泥で帳・鳥・草花・折枝などを下絵に描く。書芸文化院などに分蔵。 後撰和歌集切 - 伝源俊頼・伝藤原公任筆 経裏切 - 伝源俊頼 『筋切』『通切』 - 伝藤原佐理筆 治暦4年(1068年)

藤原滋実

允であった滋実は左近衛将曹兼出羽権大目・茨田貞額とともに雄勝郡・平鹿郡・山本郡の三郡の不動穀を郡内および添河・覇別・助川の三村の俘囚に与えて、民心を慰諭し励勉させる。こうして懐柔した俘囚の深江弥加止らに反乱を続けていた夷俘を討たせ、乱は鎮定された。 8月末に夷俘300余人が秋田城下に押し寄せ、官人に