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단어 상세정보

造寺

[ぞうじ]
寺を建てること。

관련 단어

造寺司

造寺司(ぞうじし)とは、奈良時代に官寺あるいはこれに准じた寺院を造営するために設置された令外官のこと。 寺院単位で設置され、施設の建築やそこで使われる用具の製造(経典の写経も含む)にあたった。最古の例は法興寺創建時において蘇我善徳(馬子の子)が任じられたとされ、飛鳥寺創建の際にも設置されていた(その

東大寺造寺所

東大寺造寺所(とうだいじぞうじしょ)とは、東大寺の造寺司であった造東大寺司の廃止後、造寺・造仏・造営の業務を引き継いだ機関。修理所とも呼ばれた。 延暦8年3月16日(789年4月15日)に廃止された造東大寺司の事業を引き継ぐために発足、財源は東大寺の寺封5000戸(米10000斛相当)のうち、造営用に充てられ

龍造寺氏

龍造寺氏(りゅうぞうじし)は、日本の氏族。戦国時代に肥前国の東部の国人から、九州の北西部を支配する戦国大名に成長した一族である。信周・長信の子孫は龍造寺四家として残り、龍造寺嫡家は途絶えたが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在する。龍造寺隆信は鍋島直茂の義兄である。

龍造寺町

丁番を持たない単独町名である。 大阪市中央区の中央部に位置。北は内久宝寺町、南は安堂寺町、東は上町、西は谷町五丁目にそれぞれ接する。 当地は織田作之助原作の映画『夫婦善哉』のロケ地として知られる。 5世紀に難波津が設けられた頃は上町台地北部は物流の拠点となり、 当地も鍛冶、ガラス

寺田隆造

の校舎を建設。1932年には町内7000メートルの消火水道管網の工事、1934年には鞠子川に灌漑(かんがい)水分配設備(分水工)を設け、多年の水争いを解消するなど、町の懸案事業を次々と成し遂げた。 同町の作家である小杉天外とは、終生深い交流があり、寺田家は、晩年、生家をなくした天外の宿泊先になっていた。

萬造寺齊

萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東

龍造寺高房

握られた。そのため、当時の佐賀藩は名を龍造寺氏が持ち、実を鍋島氏が握るという暫定的な二重統治体制となっていた。龍造寺政家に、羽柴の姓と豊臣の本姓の両方が与えられたのに対し、鍋島直茂・勝茂には豊臣の本姓のみが与えられた。後に、高房にも羽柴姓が与えられた。

龍造寺隆信

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」、「五州二島の大守」 などの異名が有名。 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟である。

龍造寺家門

いえかど)は、戦国時代の武将。少弐氏の家臣。 肥前国の戦国大名・少弐氏の家臣である龍造寺家兼の子として誕生。 兄・家純の養子となり、水ヶ江龍造寺氏の当主の座を引き継ぎ、家純の子・周家を養子として後継者とした。 父・家兼は斜陽の少弐氏の柱石として活躍したが、天文4年(1535年)に少弐資元が自刃した際に大内氏との内通を疑

龍造寺家就

下したが、隆信の後継である政家は病床にあったため、家就は出馬を思い留まらせた。そのことで秀吉の勘気を被ったことから、翌年2月に浪人して小城の岩蔵へ引き籠ると剃髪し、夢菴と号した。 嫡男・光則は、鍋島一族の重臣石井忠尊の養子となり、子孫は佐賀藩に仕えた。 ^ a b c d 『北肥戦誌』の記述 ^ 現・小城市小城町岩蔵。

龍造寺家氏

肥前国国人・龍造寺氏12代当主・龍造寺家秀の子として誕生。 龍造寺氏は肥前の国人領主の一つであったが、主君筋の少弐氏が大内氏との紛争で疲弊すると、相対的に肥前国内で自家の力を増加させた。また信心深く、肥前瑞應寺を開基した。 死後、家督は嫡男・康家が継いだ。 ^ 『大日本史料』第9編之2 529頁

龍造寺政家

龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前国の戦国大名。戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。官位は従四位下・侍従、肥前守。 弘治2年(1556年)、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の嫡男として誕生。永禄4年(1561年)に元服し、近隣の強大勢力・大友義鎮(宗麟

造東大寺司

知識人も参加し、仕丁及び一定の功賃の支給を受ける雇夫・雇女・奴婢など多数の役民が参加している。官人身分の史生・舎人・雑工・経師には、造東大寺司所属の司人・司工のほか、諸識寮の舎人や図書寮書生・画工司画工など、ほかの官司からの出向者が多く、雇工・雇夫・雇女の比里が高いことと考え合わせると、臨時設置の造営・写経官司の特徴を表している。

龍造寺家晴

のため柳川城は立花宗茂の与力、三池鎮実に給され、家晴は所領を失った。家晴は大坂への帰途にあった秀吉を追い、下関の赤間関にて嘆願した結果、九州平定に参陣しなかった肥前高来郡伊佐早領主・西郷信尚の所領を没収して与えられることが決せられた。同年8月に家晴は自軍の2,500騎、政家よりの援軍1

龍造寺家兼

当初は分家である水ヶ江龍造寺家を興していたが、本家である村中龍造寺家が、内部分裂や当主の早逝で力を弱めたため、一門の長老である家兼が本家を補佐することとなった。ところが、剛腹かつ智勇に優れていた家兼は、たちまち本家の実権を掌握し、主家に当たる少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めた。享禄3年(1530年)には、大内義隆が家臣の杉

龍造寺胤栄

胤栄の未亡人(龍造寺家門の娘)は隆信に再嫁した。娘の於安は小田政光の嫡子・鎮光に嫁ぎ、鎮光が龍造寺隆信に背いた為に謀殺されると、波多親に再嫁している。 土橋栄益(つちはし みつます、家臣) 納富栄房(のうとみ みつふさ、家臣、納富石見守、法名:道周、納富則貞の子で、納富信景の父) ^ 「栄」の字を“みつ

龍造寺胤久

一門の最長老である叔父・水ヶ江龍造寺氏の家兼の補佐を受けたが、実権は家兼にあり、傀儡に近い存在であった。千葉氏や少弐氏の影響下にあり、享禄3年(1530年)の田手畷の戦いにも参戦したが、実際に活躍したのは家兼達であった。 ^ 『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述。

龍造寺信周

なお、信周の子孫は須古鍋島家(龍造寺四家の一つ)として、佐賀鍋島家の重臣として明治維新を迎えた。 慶長13年(1608年)死去。跡を次男・信昭が継ぐ。 ^ 一説には子の多久安順。 ^ 『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述。 ^ “りゅうぞうじ のぶかね”. 白石町. 2021年10月31日閲覧。

龍造寺家純

父:龍造寺家兼(1454-1546) 母:不詳 室:不詳 男子:龍造寺周家(1504-1545) - 龍造寺家門の養子 男子:龍造寺純家 男子:龍造寺頼純 女子:桃源院 - 鍋島清房正室 女子:千葉胤連正室 女子:馬場政員室 女子:犬塚尚家室 - 後石井忠清継室 ^