視覚しかくや聴覚ちょうかくなどの情報処理じょうほうしょりにおいては、脳のうの働はたらきの個人差こじんさは比較的ひかくてき少ない。丸まるいものを提示ていじすれば、脳のうはそれを丸まるいものとして認識にんしきする。丸まるいものを提示ていじした時ときに、それを「丸まる」と認識にんしきする人ひとと「三角さんかく」と認識にんしきする人ひとが相半あいなかばするということはあり得えない。同様に、ある{ピッチ}の音おとを聴きいた時ときに、その情報処理じょうほうしょりに個人差こじんさはあまり見みられない。その一方いっぽうで、ある事象じしょうに対たいする感情かんじょうの反応はんのうにおいては、個人こじんによるばらつきが大おおきくなるのが通例つうれいである。同じものを前まえにしても、全すべての人ひとがそれを好すきだと感かんじたり、逆ぎゃくに全すべての人ひとがそれを嫌きらいだと思おもうとは限かぎらない。ある人ひとが好すきだと感かんじるものを、別べつの人ひとが嫌きらいだと思おもうのはごく普通ふつうのことである。感情かんじょうにおいては、脳のうの反応はんのうに大おおきな個人差こじんさが見みられるのである。そもそも、感情かんじょうの働はたらきとは何なんであろうか?ひと昔むかし前まえには、感情かんじょうとはある特定とくていの刺激しげきに対たいする類型的るいけいてきな反応はんのうであると考かんがえられてきた。大脳新皮質だいのうしんひしつが担になっている理性りせいの働はたらきが環境かんきょうの変化へんかに応おうじて柔軟じゅうなんな情報処理じょうほうしょりを行おこなうのに対たいして、「爬虫類はちゅうるいの脳のう」とも呼よばれる古ふるい脳のうの部位ぶいが重要じゅうような役割やくわりを担になう感情かんじょうは、一定いっていの決きまり切きった反応はんのうをするものと思おもわれていたのである。しかし、近年きんねんの脳科学のうかがくの発達はったつにより、感情かんじょうは、むしろ生いきる上うえで避さけることのできない不確実性ふかくじつせいに対たいする適応戦略てきおうせんりゃくであることが明あきらかになってきた。理性りせいでは割わり切きれない、結果けっかがどうなるかわからないような生なまの状況じょうきょうにおいて、それでも判断はんだんし、決断けつだんすることを支ささえるための情報処理じょうほうしょりの{メカニズム}として、感情かんじょうは存在そんざいしていると考かんがえられるに至いたったのである。(中略ちゅうりゃく)感情かんじょうが不確実性ふかくじつせいに対たいする適応てきおうであると考かんがえると、その反応はんのうにおいて個人差こじんさが生しょうじるのは自然しぜんなことである。不確実ふかくじつな状況じょうきょうの下もとでは、とるべき選択肢せんたくしの「正解せいかい」は一ひとつとは限かぎらないからである。さまざまな人々ひとびとが異ことなる戦略せんりゃくをとり、全体ぜんたいとしてバラエティが増ましたほうが、人間にんげんという生物種せいぶつしゅ全体ぜんたいとしては、むしろ適応的てきおうてきである。生死せいしにかかわるような状況じょうきょうにおいては、たとえ、ある選択せんたくをした人ひとが不幸ふこうにして死しんでしまったとしても、別べつの選択せんたくをした人ひとが生いきのびれば生物種せいぶつしゅとしては存続そんぞくできるからである。全体ぜんたいが同じ選択肢せんたくしを選えらんでしまっては、環境かんきょうの変化へんかや予想よそうのできない事態じたいに対たいして脆弱ぜいじゃくになってしまう。他人たにんが異ことなる感情かんじょうの反応はんのうを見みせることを許容きょようすることの倫理的りんりてき基礎きそは、まさにこの点てんにある。他人たにんが自分じぶんと異ことなる感情かんじょうの中なかにあることに反発はんぱつするのは自然しぜんな心こころの動うごきであるが、とらわれてはいけない。自他じたの差異さいに対たいして許容的きょようてきであることが、すぐれて生命哲学せいめいてつがく上じょうの原理げんりにかなっているのである。(茂木健一郎もぎけんいちろう「疾走しっそうする精神せいしん」による)相半あいなかばする:同じくらいであるとらわれる:ここでは、ある考かんがえに縛しばられる
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