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一条内基

内基(いちじょう うちもと)は、戦国時代後期から江戸時代初期にかけての公卿。関白・一条房通の次男。官位は従一位・関白、左大臣。一条家13代当主。号は自浄心院・翫月など。一字名は杏。本能寺の変が起きた時の関白でもある。 天文17年(1548年)、一条房通の次男として誕生。

Palavras Relacionadas

一条内実

一条 内実(いちじょう なかさね)は、鎌倉時代後期の公卿。太政大臣・一条家経の子。一条家3代当主。官位は正二位・内大臣。 建治2年(1276年)に一条家経の子として誕生。正応元年(1288年)11月8日)に従三位となり、内大臣(1302年-1304年)を歴任。 嘉元2年(1304年)内覧に任じられた上で薨去。

一条内経

一条 内経(いちじょう うちつね)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣・一条内実の子。官位は従一位・関白。一条家4代当主。号は芬陀利華院関白(ふんだりかいん かんぱく)。 正安元年(1301年)に元服して翌年に公卿に列する。嘉元2年(1304年)、父の急死によって14歳で一条家を継いだ。『玉葉和歌集

一条

五摂家の一。 藤原北家。 九条家より分立。 道家の子実経を祖とする九条流の嫡流で, その称は居所の一条坊門にちなむ。

一条

(1)ひと筋。 「~の川」「~の閃光」 (2)箇条書きのひとくだり。 一箇条。 また, 第一条。 「~の条文」 (3)ある事柄のなりゆき。 一件。 一事。 「拙者が絶命の~今日(コンニチ)に迫り/人情本・梅美婦禰 4」

一条

※一※ (名) (1)細長いものの一本。 一条。 「ほつれ毛が~頬(ホオ)にかかる」「~の川」「~の光明」 (2)一つの血統。 一族。 「ただこの~のかく栄え給ふべきとぞ見申す/大鏡(師輔)」 (3)一道。 一芸。 「無能無才にして此~につながる/幻住庵記」 (4)〔銭緡(ゼニサシ)一本に一文銭を百個通したことから〕 百文。 「いやがつて月に~づつがのみ/柳多留 3」 (5)「一筋縄」の略。 「左平次も~ではいかぬやつ/滑稽本・膝栗毛 8」 ※二※ (形動) (1)そのことだけに意を用いるさま。 いちず。 「~に思いつめる」「学問~に生きる」 (2)一様であるさま。 並一通り。 「我が恋の~ならず悲しきは逢ふを限りと思ひだにせず/狭衣2」

二条持基

二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。 父は関白の二条師嗣で次男。母は参議の東坊城長綱の娘。初名は基教(もとのり)という。応永17年(1410年)に兄の満基が急死したため、その養子となって家督を継いだ。応永31年(1424年)、称光天皇の関白となる。正長元年(1428年)に称

二条教基

二条 教基(にじょう のりもと)は、南北朝時代の公卿・歌人。関白・二条師基の子。官位は関白、左大臣。南朝に仕えた。 南朝の補任記録が残されていないために具体的な官歴については不明である。正平5年/観応元年(1350年)9月北朝大嘗会の御禊行幸に供奉した廷臣の中に「正五位下藤原朝臣教

北条基時

たため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した。享年48。 辞世の歌は「待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同く越て 浮世語らん」であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる。 ※ 日付=旧暦 1299年(正安元年)11月4日、従五位下左馬助に叙任。

二条基弘

1887年(明治21年)、イギリスのケンブリッジ大学に自費留学する。貴族のノブレス・オブリージュを学び、上院の地主貴族の行動に深く影響を受けることとなった。帰国後は、貴族は徒食すべきではないとして1889年(明治23年)9月に貴族院議員となり、政治活動を始める。 1901年(明治34年)には貴族院の院内会派として発足した土

二条良基

啖呵を切ったとされる(『続本朝通鑑』)。この過程で和平構想に失敗した公賢とその縁戚である一条経通・鷹司師平らの政治力は失墜し、政務は年若い新帝や政治経験の無い広義門院を補佐する形式で良基とその側近達及び九条経教・近衛道嗣ら新帝支持を決断した少数の公卿らによって運営していくことになる。

二条尚基

二条 尚基(にじょう ひさもと)は、室町時代の公卿。二条政嗣の子。母は水無瀬季兼の猶子(細川教春の娘)・兼子。子は二条尹房。二条家12代当主。号は後如法寿院。正二位。 文明15年(1483年)12月23日、叙従三位。 同年に元服、家の慣例により室町幕府第9代将軍足利義尚より偏諱を賜い、尚基と名乗る。

二条兼基

二条 兼基(にじょう かねもと)は、鎌倉時代の公卿。関白二条良実の子。兄師忠の養子となり二条家を継ぐ。正室は従一位禖子(九条忠教の娘)。子に二条道平らがいる。従一位。号に光明照院関白。 建治3年(1277年)4月21日元服、従五位下。弘安6年(1283年)叙従三位。正応元年(1288年)正二位、正応

二条宗基

二条 宗基(にじょう むねもと)は、江戸時代の公卿。号は後敬心院。 享保12年(1727年)に権大納言九条幸教の子として京に生まれる。元文3年(1738年)に二条宗熙の妹多米姫(喜子)と結婚し二条家に養子縁組する。この年、桜町天皇より今後の即位灌頂は二条家で行うようにと宸翰を得る。元文4年(1739

二条厚基

0年6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任し、研究会に所属し死去するまで在任した。 1917年以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年に死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。 1907年(明治40年)7月10日

九条政基

たものの、現職の関白である近衛尚通に合意を得てから裁決することとなった。ところが、これを聞いた三条西実隆が「摂家准后与家礼侍臣対揚之御沙汰、頗朝儀之軽忽歟」(『実隆公記』明応5年2月5日条)と摂関家と他の一般の公家を同格に扱うこと自体が朝廷の秩序の乱れになるとして非難し、尚通も同意に消極的な態度を示

四条頼基

四条 頼基(しじょう よりもと、四条中務三郎左衛門尉頼基)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士。日蓮の有力檀越。官位が左衛門尉であったので左衛門尉の唐名である金吾と称され四条 金吾とも言われる。 承久3年(1221年)の承久の乱後、父・四条頼員の代から北条氏一族の名越朝時・光時父子に執事として仕え

基本信条

カルケドン信条を、あくまでニケア・コンスタンチノポリス信条の解釈を規定するものとしてカルケドン定式と呼び信条には数えない教派もあるが、これはカルケドン信条の内容の軽視や非準拠を意味するものではない。 また、東方教会では一般に使徒信条とアタナシオス信条を告白しない。これは両信条が西方で成立し、公会議(全地公会)議決によっ

二条師基

朝時代が始まり、師基は翌4年(1337年)1月に吉野に到着し、始めて参内している。二条家は、甥の二条良基が北朝に、叔父の師基が南朝に仕えたため、両家に分裂した。 師基は、延元4年/暦応2年(1339年)に後村上天皇が即位した時点で内大臣、その後、左大臣に任じられた。

九条忠基

経教の子。官位は従一位・関白。九条家11代当主。 延文2年(1357年)従三位に叙せられる。左大臣などを歴任した後、永和元年(1375年)12月27日従一位・関白に就任、康暦元年(1379年)8月22日辞職。 応永4年(1397年)12月20日薨去。異母弟で養子の満家が跡を継いだ。 父:九条経教(1331-1400)