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Detalhes da Palavra

巨勢麻呂

人や人民が少なく狄徒(出羽国の蝦夷)も未だ十分に従っていない一方で、土地が肥沃で田野が広大であることから、近国の人民を出羽に移住させて凶暴な狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべき旨を建言する。これに基づき朝廷では、陸奥国の置賜・最上の2郡と、信濃・上野・越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移した。

Palavras Relacionadas

巨勢奈弖麻呂

昇る。さらに天平17年(745年)には鈴鹿王の薨去により一時は太政官の次席となった。 またこの間、天平14年(742年)の紫香楽宮行幸では鈴鹿王・紀飯麻呂と共に、天平15年(743年)紫香楽宮行幸では橘諸兄・鈴鹿王と共に、天平17年(745年)の難波宮行幸では藤原豊成と共に恭仁京留守官を務めた。さ

藤原巨勢麻呂

^ 『続日本紀』天平宝字6年11月10日条 ^ a b 『尊卑分脈』 ^ 出自は不明だが、『尊卑分脈』によると川合・真書・伊勢人は同母兄弟であるとされる。 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1995年 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

麻呂

〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕 ※一※ (接尾) (1)人名, 特に稚児に用いる。 「牛若~」「蝉~」 (2)刀, 楽器, その他の器物の名に用いる。 「膝切~」「抜~」 (3)船の名に用いる。 「咸臨~」 (4)種々の物や人名などに付けて, 親愛の意を表す。 「翁~」「もず~」 ※二※ (代) 一人称。 中世後期, 天皇またはこれに準ずる人が用いた。 「~が千人の后のましませども/御伽草子・熊野」

麻呂

※一※ (代) 一人称。 わたし。 身分の上下や男女を問わず使用した。 「~が父(チ)/古事記(中)」 ※二※ (接尾) (1)人名に付いて, 主として男子の名をつくる。 「柿本人~」「和気清~」 (2)人の呼称や動物の名などに付いて, 親愛の意を表す。 「うま~」「さる~」

巨勢氏

にも作る。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。 記紀などの所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰を始祖とする。6世紀以降、朝鮮半島との外交・軍事に従事することによって台頭した新興豪族であり、継体天皇朝に

巨勢派

年)に皇命にて御屏風八帖を画いたと知られる。 第4世巨勢公望(こせの きんもち) 金岡の第三子。『源氏物語』「絵合」に「大極殿の儀式…公茂(公望)が仕れるが…」とある。 第5世巨勢広貴(こせの ひろたか)(*)弘高・広高と同じ。 深江(公望の子)の子。『権記』長保四年(1002)花山上皇の勅にて書写山性空上人を画かしめたと知られる。

巨勢人

壬申の乱が大海人皇子の勝利に帰すと、乱後大納言巨勢臣比等と子孫は配流された(『日本書紀』)。結局内訌の性質はわからないながら、少なくとも比等の側に大海人皇子に靡くような行動はなかったと考えられている。ここにある「大納言」は、日本書紀の編者が御史大夫を編纂当時の官職名に改めたものと考えられる。 父:巨勢大海

巨勢猿

崇峻天皇4年(591年)8月、天皇は群臣に任那を復興すべしという詔を出している。これにより、同年11月、巨勢猿は、紀男麻呂・大伴囓・葛城烏奈良らとともに大将軍に任じられ、2万あまりの軍とともに筑紫国に派遣された。ただし、朝鮮半島へは渡海しておらず、推古天皇3年(595年)7月に筑紫を引き上げたという。

書麻呂

子ともども討ち取られて、妃や側室は自殺した。 このような事件の首謀者の一員であったにもかかわらず、白雉5年2月(654年)に遣唐押使を高向史玄理、大使河辺臣麻呂、副使薬師恵日を中心とする遣唐使一行の中に、「判官」として大乙上(「或本」では小山下)の「書直麻呂」の名前がある。翌斉明天皇元年8月(65

夢麻呂

ウド鈴木の名付け親。 2008年に行った「夢麻呂トークライブVol.1しゃべりまくるぜ90分〜夢麻呂父ちゃんの子育て日記〜」では、ステージで90分どころか2時間以上も一人で喋り続けた。 2002年2月22日にYANKEE STADIUM 20XXに出演していたダンサーの渋谷洋子と入籍。

巨福呂坂

の間の洲埼・千代塚で戦い「一足も退かず自害す」とあり、その後の5月18日から22日の間「山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」とあるのみで場所を特定する手がかりは無い。 「玉舟和尚鎌倉記」では「亀ヶ井坂」と「小袋坂」が分けて書かれ、徳川光圀の

巨勢至忠

養父:巨勢至信 正室:巨勢至信次女 継室:毛利高慶娘 生母不明の子女 男子:巨勢利貞 - 病弱につき家督を継がず 養子 男子:巨勢至健 - 松平忠刻の四男、忠睦 男子:巨勢至方 - 大岡忠光の三男 男子:巨勢至親 - 板倉勝興の三男 女子:巨勢至親室 - 実父は土岐朝貞、巨勢至健室→巨勢至方室→巨勢至親室

巨勢金岡

巨勢派と称される画家集団を形成、宮廷画や仏画の分野において多大な影響力を発揮した。しかし、その作品は一切現存してはいない。 大阪府堺市北区金岡町には当地に住んでいたとされる巨勢金岡を祀った金岡神社が鎮座し、神社の東北東200mの場所には巨勢金岡が筆を洗ったとされる「金岡

巨勢邑治

に叙任されるなど、要職を務めて順調に昇進する。 元正朝では、養老2年(718年)中納言に任ぜられて公卿に列すと、養老3年(719年)正四位下・摂津国摂官、養老5年(721年)従三位と急速に昇進を果たした。 聖武朝の神亀元年(726年)2月に正三位に昇叙されるが、同年6月6日薨去。最終官位は中納言正三位。

巨勢行忠

父・有久の跡を継ぎ、正平18年/貞治2年(1363年)京都東寺の大仏師職となる。元中6年/康応元年(1389年)完成の同寺の「弘法大師行状絵巻」などが代表作。『本朝画史』によると「中華の風を学び、筆力紹妙也」とある。行忠以降、京都の巨勢派は跡絶えた。 [脚注の使い方] ^ 『大師御絵日記』第11巻

巨勢男人

巨勢 男人(こせ の おひと)は、古墳時代の人物。氏は許勢とも記される。許勢小柄の曾孫。巨勢河上の子。 男人の出自について、『紀氏家牒』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。 武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人

巨勢利和

としまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・国学者・歌人。丹波亀山藩2代藩主・松平信直の四男。諱は「としより」とも読む。 明和4年(1767年)、誕生。巨勢至親の養子となり、天明6年(1786年)に至親が没したため家督を継承した。 寛政元年(1789年)に使番として出頭した後、小普請組、小姓組、書院番の番頭を歴任した。加藤千蔭

巨勢文雄

紀長谷雄「後漢書竟宴各詠史得龐公」『本朝文粋』巻9-262 ^ 『日本三代実録』貞観18年4月10日条 ^ 『日本三代実録』元慶3年12月21日条 ^ 滝川[2009: 56] ^ 『除目抄』 ^ 大江匡衡「餞越州刺史赴任」『江吏部集』巻中 ^ 滝川[2009: 57] ^ 彌永貞三「仁和二年の内宴」『日本古代の政治と資料』高科書店、1962年

巨勢稲持

巨勢 稲持(こせ の いなもち、生没年不詳)は、古墳時代の豪族。氏は許勢、名は稲茂とも記される。姓は臣。 『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇元年(540年)9月、難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)に天皇が行幸した際に、大伴大連金村・物部大連尾輿らとともに随従し、天皇より、「幾許(いくばく)の軍