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Detalhes da Palavra

本院

[ほんいん]
(1)主となる院。
(2)
この院。
「~では往診はいたしません」
(3)上皇や法皇が二人以上いる時, 最も早くから院であった人。
→ 新院
→ 中院

Palavras Relacionadas

院本

(1)中国金代に盛行した演劇。 一幕物の風刺劇が主体となっていたと推定され, 北宋の雑劇を引き継いだもので, 元代の雑劇の母胎となった。 (2)江戸時代, 浄瑠璃の詞章全部を収めた版本。 丸本(マルホン)。

本性院

父は吉江政福。母は政福の養父・吉江正核の女。 文化元年(1804年)に御次、文化4年(1807年)には御中臈となり、徳川家斉の寵愛を受ける。 以後、陽七郎、徳川斉彊、岸姫、富八郎、文姫(松平頼胤室)、艶姫、孝姫を出産。 文政13年(1830年)、死去。法名は本性院観妙諦普光大姉。 徳川将軍家墓碑総覧

本浄院

本浄院(ほんじょういん、慶長3年(1598年) - 寛永4年8月19日(1627年9月28日))は、江戸時代初期の女性。加藤清正の長女。名は「あま」また「こや」(古屋)とも(後述)。母は側室浄光院(竹之丸殿)。加藤家2代忠広、徳川頼宣の正室八十姫(瑤林院)の姉である。養子に榊原勝政がいる。

本徳院

正徳3年(1713年)に、当時紀州藩主であった吉宗の側室・お須磨の方が死去すると、古牟が須磨の又従姉妹であることから、家臣の間では吉宗の側室候補として挙げられた。しかし『徳川実紀』によると、古牟を訪ねた家臣が「枕席に侍らすべきさまにあらず」と心配するほどの醜女であったとされる。 古牟は赤坂の紀州藩邸に

本陽院

本名は成子だが、通称は藤。法名は本陽院殿槃室妙栄大禅定尼。現在の本陽寺は冥福を祈るために建てられた。本陽院所用の薙刀が本陽寺に保管されている。 『刪補仙石家譜』 センゴク - 宮下英樹が描く秀久が主人公の漫画。妻のお藤として登場。 内助の功 上田城と仙石氏(上田市立歴史博物館ホームページへ) 本陽寺

本輪院

松平斉承の養子)、松平斉省(松平斉典の養子)、松平斉宣(松平斉韶の養子)を生む。 天保12年(1841年)、徳川家斉が死去すると落飾し本輪院と号し二の丸へ移る。 嘉永3年(1850年)、死去。法名は本輪院修達了顕大姉。 [脚注の使い方] ^ 浄薫院韶光幻応大童女 徳川将軍家墓碑総覧 日本女性人名辞典

本龍院

囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。 待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。 台東区指定文化財 銅造宝篋印塔 東京都台東区浅草7-4-1

日本棋院

援者として、本因坊秀哉以下の坊門の棋士や方円社などほとんどの棋士が集結し、日本棋院が設立された。同年9月8日には日本将棋連盟の前身となる東京将棋連盟が設立されている。 設立直後に棋正社の独立などもあり多少動揺した日本棋院であったが、その後新布石法の発表などで囲碁の人気も高まり、磐石の体制を築く。

日本学士院

日本学士院(にっぽんがくしいん、英: The Japan Academy)は、日本学士院法(以下「法」)に基づいて設置されている日本の国立アカデミーであり、文部科学省の特別の機関である。1879年に東京学士会院として発足し、1906年に帝国学士院に改組された。1947年に日本学士院

枢密院 (日本)

枢密院(すうみついん、旧字体: 樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮詢機関。憲法および憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関でその性質上「憲法の番人」とも呼ばれた。1888年(明治21年)に大日本帝国憲法草案審議のために創設され、1947年(昭和22年)5月

貴族院 (日本)

議員に任じられるのは、もちろん妨げられない。 議員の歳費は議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年(昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。ただし皇族議員や公侯爵議員など終身議員には歳費は支給されなかった。

元老院 (日本)

元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。 1875年(明治8年)に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退

日本芸術院

致体制の実現を図った。改革は会員の特権であった無鑑査による出品方法などにも及んだことから、洋画(第二部)の会員が二部会を結成して抵抗を示すなど反発が強まった。 1936年(昭和11年) - 2月に改革後、初となる帝展が開催されたが、中堅どころの無鑑査級の作家が帝展改革に反旗を翻して出品を辞退。松田

日本美術院

田辺源助(たなべげんすけ) 寺崎広業(てらさきこうぎょう) 滑川貞勝(なめかわていしょう) 新納古拙(忠之介)(にいろこせつ(ちゅうのすけ)) 橋本雅邦(はしもとがほう) 菱田春草(ひしだしゅんそう) 府川一則(ふかわかずのり) 前田香雪(まえだこうせつ) 松本楓湖(まつもとふうこ) 山田敬中(やまだけいちゅう)

日本病院会

※現在、日本医療法人協会・日本精神科病院協会・全日本病院協会を含め四団体で「四病院団体協議会(通称:四病協)」を組織する。また、「日本病院団体協議会(通称:日病協)」にも加入し、主幹事(事務全般の取扱いであり、代表機関ではない)を行っている。 日本病院会 日本病院会50年史 1951〜2000

日本デザイナー学院

名誉学院長に岡秀行が就任。日本デザイナー学院長に秋山庄太郎が就任。 1998年(平成10年) - 日本デザイナー学院校長に中村誠が就任。 2000年(平成12年) - 2代目理事長に宋成烈が就任。 2004年(平成16年) - 日本デザイナー学院7代目校長に岡田弘子が就任。 2012年(平成24年) - 日本デザイナー学院8代目校長に野口朝夫が就任。

ワットパクナム日本別院

継続するため、ワットパクナムの一行は30年以上を費やし、10回日本を訪れている。 1998年、一人のタイ系日本居住者の発意を契機とし、タイ系居住者の拠所となることを意図して、ワットパクナム日本別院の最初の用地が購入された。土地の購入資金はこのタイ系居住者の輸入業・飲食業の売り上げと、タイ本国寺院によ

院

※一※ (名) 〔周囲を高い垣で囲まれた大きな建築物の意〕 (1)上皇・法皇・女院の御所。 「~に参る」 (2)上皇・法皇・女院のこと。 「~の仰せ」 ※二※ (接尾) (1)官庁などの国家機関や学校・病院など公共の建物の名に付ける。 「人事~」「養老~」「施薬(セヤク)~」 (2)寺またはその中の一つの建物, 付属する塔頭(タツチユウ)などの名に付ける。 「三千~」 (3)上皇・法皇・女院などの諡号(シゴウ)に付ける。 「後白河~」「後鳥羽~」 (4)〔仏〕 中世以降, 大名など身分ある死者の戒名に付ける。 院号。 近代では庶民も付けるようになった。

日本学士院賞

益川敏英(理学博士)・小林誠(理学博士) - 「六元クオーク模型の提唱」 太田朋子(理学博士) - 「分子レベルにおける集団遺伝学の理論的研究」 荒田吉明(工学博士) - 「超高エネルギ密度熱源の開発と熱加工への適用」 沼正作(医学博士) - 「神経情報伝達の分子機構に関する研究」 山村雄一(医学博士) - 「細胞性免疫とその制御」