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ヨハネス2世

ヨハネス2世 ヨハネス2世 (ローマ教皇) ヨハネス2世コムネノス - 東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝 ヨハネス2世ドゥーカス - テッサリア君主国の尊厳公 ヨハンネス2世 このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の記事の水先案内のために、同じ人名を持つ

คำที่เกี่ยวข้อง

ヨハネス2世コムネノス

ヨハネス2世コムネノス(ギリシア語:Ιωάννης Β' Κομνηνός (Iōannēs II Komnēnos)、1087年9月13日 - 1143年4月8日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝(在位:1118年 - 1143年)。同王朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノス

ヨハネス2世 (ローマ教皇)

ヨハネス2世(Ioannes II、470年頃? - 535年5月8日)は、ローマ教皇(在位:533年 - 535年)。着座した時、ローマ神話の神に由来する自身の名を教皇名とすることを厭い、本名とは異なる名を名乗った初の教皇とされる。 表示 編集 表示 編集 表示 編集

ヨハネス4世ラスカリス

ヨハネス4世ラスカリス(ギリシア語:Ιωάννης Δ' Λάσκαρης (Iōannēs IV Laskarēs)、1250年12月25日 - 1305年)は、ニカイア帝国の最後の皇帝(1258年8月18日 - 1261年12月25日)。 1258年に父帝テオドロス2世

ヨハネス7世パレオロゴス

ヨハネス7世パレオロゴス(ギリシア語: Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος, 1370年 - 1408年9月22日)は東ローマ帝国パレオロゴス朝の皇帝(在位:1390年4月14日 - 9月17日)。アンドロニコス4世パレオロゴスとブルガリア皇女キラツァ・マリアの一人息子。中世ギリシア語読みではヨアニス7世パレオロゴス。

ヨハネス6世カンタクゼノス

立を一気に爆発させてしまった事であろう。熱心党の反乱にも見られるように、彼が貴族層を頼りにして挙兵したのは、却ってそれ以外の人々を正統主義と反貴族、そして反静寂主義に立ち上がらせてしまった。また、政権に親族を起用した為に一門支配のそしりを免れず、特にヨハネス5世を廃して自らの息子マタイオスを帝位に

ヨハネス5世パレオロゴス

万事に無気力となり、現実の問題から背を向けがちであったとする記録もある(「女で身を持ち崩し、放蕩に耽っていた」と酷評する歴史家もいるほどである)。帝位争いの苦境にあって彼を助け、最終的に帝位を継承した次男マヌエル2世との関係でさえ、万事

ヨハネス1世ツィミスケス

らの帰途に宦官バシレイオス・ノソスが国有地を強奪していることを知ったヨハネスが激怒し彼を処罰しようとしたが、身の危険を感じたバシレイオスはヨハネスの酌人を味方につけて滞在地の有力者による歓迎の宴の最中にヨハネスに少しずつ毒を飲ませたため、首都に帰り着いたときにはヨハネスは瀕死の状態であったと伝えてい

ヨハネス8世パレオロゴス

働きでどうにか撤兵と和平に持ち込んだものの、合同反対派の皇帝政府への反感は拭いようもなかった。 更に、合同の成果としてもたらされた西欧十字軍の遠征も惨憺たる結果に終わった。ローマ教皇エウゲニウス4世の指令下、ハンガリー・ポーランド王ウラースロー1世を中心にブルガリア・ヴァルナに派遣された十字軍は内部

ヨハネス

ネス、ヨハンネス、ヨハネといった表記も用いられる。 他言語での発音・読み方は、スウェーデン語発音: [juˈhanəs](ユハネス)、デンマーク語発音: [jʊ'hænəs](ユハネス)がある。本稿#相当する各国語・各種表記も参照。 ヨハンネス (西ローマ皇帝) ヨハネス1世 (ローマ教皇)

ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス

ヨハネス3世ドゥーカス・ヴェタツェス(ギリシア語:Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης (Iōannēs III Dūkas Batatzēs), 1193年 - 1254年11月3日)は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国の第2代皇帝(在位:1222年 - 1254年)。てんかん持ちであった。

ヨハネス1世 (ローマ教皇)

成果を何一つ手にすることなく帰国した。テオドリックはその結果に激怒し、ヨハネス1世を捕らえて牢へ投じた。ヨハネス1世は即位時点でかなりの老齢であり、長旅と老衰からテオドリックの処分を受ける前に獄死する。教皇の死についてはいくつかの伝聞が残され、時代が下った14世紀に作られたラヴェンナのサンタ・マリア

ヨハネス8世 (ローマ教皇)

そうした情勢の最中にローマ貴族の抗争に巻き込まれ、882年12月16日に暗殺された。年代記によるとヨハネス8世は毒を盛られた上で撲殺されたと言われ、犯人は教会内の何者かと言われているが不明。次の教皇はマリヌス1世が選出、暗殺容疑をかけられたフォルモススは無罪放免にされた。 [脚注の使い方] ^ a b 小林(1966)巻末「歴代法王表」p

ヨハネス10世 (ローマ教皇)

928年6月)は、ローマ教皇(在位:914年3月 - 928年5月)。教会慣用名はヨハネ。 イタリアのトッシニャーノ生まれ。教皇登位は914年3月であった。クレモナ司教リウトプランドによると、ラヴェンナ大司教であった時より、ローマの有力貴族テオフィラットの妻テオドラと関係があったとされ、その真偽は定かではないが、教皇登位

ヨハネス6世 (ローマ教皇)

ヨハネス6世(Ioannes VI、655年 - 705年1月11日)は、ローマ教皇(在位:701年 - 705年)。教会慣用名はヨハネ。 ギリシアに生まれる。教皇登位は701年10月30日であった。705年1月11日に没した。 [脚注の使い方] ^ a b 小林(1966)巻末「歴代法王表」p.4

ヨハネス12世 (ローマ教皇)

って事態が露見した。ここに至って教会内部でもヨハネス12世に対して反発の声があがり、不満を持つ者も多く現れて、963年、ヨハネスは皇帝オットー1世によって教皇廃位を宣告され、ローマから追放された。 後任の教皇として、レオ(レオ8世)が即位した。 オットー1世がローマを発ったのち、すぐに

ヨハネス17世 (ローマ教皇)

996年)である。一般的に16世(在位:997年-998年)は対立教皇とされており、17世は本来ならば「16世」とすべきところであるが、それは修正されていない。また、14世と15世の間にもう一人の「教皇ヨハネス」がいたという説があり、その伝説の教皇を「16世」とすることが

ヨハネス14世 (ローマ教皇)

4年4月)。ヨハネス14世へ反感を抱いていたローマ民衆の後押しもあって、ボニファティウス7世はヨハネス14世をサンタンジェロ城に幽閉した。ヨハネス14世は捕囚されたまま984年8月20日に死去した。死因は餓死か毒殺とされる。 ボニファティウス7世も翌985年に殺され、ヨハネス15世が教皇に即位した。

ヨハネス11世 (ローマ教皇)

を聖ペテロの座につけることができた。マロツィアはそれにより教皇を完璧な統制の元に置けるようになったのであった。 マロツィアが排除されると、ヨハネス11世は弟アルベリーコ2世(932年 - 954年)の統制下に置かれた。教皇の自由になる唯一の公務は純粋に霊的な義務を果たす

ヨハネス15世 (ローマ教皇)

ヨハネス15世(Ioannes XV、? - 996年4月1日)は、ローマ教皇(在位:985年 - 996年)。ローマ生まれ。レオ司祭という人物の子。クリュニー修道院による教会改革運動の保護者でもあった。 ヨハネス15世が教皇に就任した頃のローマは、ローマ貴族クレッシェンティウス2世