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รายละเอียดคำ

伏見宮治仁王

伏見宮治仁王(ふしみのみや はるひとおう、応安3年(1370年) - 応永24年2月12日(1417年2月28日))は、南北朝時代・室町時代の皇族。世襲親王家の伏見宮第2代当主。追号は葆光院。 父は栄仁親王。母は三条実治の女の藤原治子(西御方)。北朝第三代崇光天皇の孫。伏見宮第3代当主の貞成親王(現

คำที่เกี่ยวข้อง

伏見宮栄仁親王

即位を念願していた。しかし、皇統が南北朝、さらには北朝自体が崇光上皇・栄仁親王の系統と崇光天皇の弟の後光厳天皇の系統に分立するなど、情勢は栄仁親王の登極が実現するには厳しいものがあった。応永5年(1398年)正月崇光上皇が崩御し、最大の後ろ盾を失った栄仁親王は、同年5月出家した。法名は通智(つうち)。同年8月に洛北萩原殿に移る。

東伏見宮依仁親王

東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう、1867年10月16日〈慶応3年9月19日〉 - 1922年〈大正11年〉6月27日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮邦家親王第17王子。官位は元帥海軍大将・大勲位・功三級。妃は土佐藩主山内豊信三女の八重子、次いで岩倉具定公爵長女周子(かねこ)。

伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の正嫡に定められた北朝第3代崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。菩提寺は広義門院創建の大光明寺。家業は琵琶(楽道)

伏見宮博恭王

総長を務めていたが、総長にあと1年長く在任していれば、開戦責任を問われて戦犯とされていた可能性も高く、もしそうなっていれば開戦責任が皇族関係者に及ぶことになる可能性もあり得た。海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった。

伏見宮博明王

1932年(昭和7年)1月26日午後2時27分、伏見宮邸において博義王と博義王妃朝子の第1王子として誕生。御七夜の2月1日に「博明」と命名された。 1938年(昭和13年)10月19日に、父宮の博義王が薨去。さらに第二次世界大戦後間もない1946年(昭和21

伏見康治

本来の仕事である物理学、特に統計力学の分野で大きな研究業績を上げた他、戦後日本の科学研究体制の確立と発展にも力を尽くし、原子力平和利用研究を推進、さらには科学者の社会的責任のアピールと行動、一般向け書籍による物理の面白さの啓発・普及、そして対称性の美の追究など、多方面に大きな足跡を残した。

東伏見宮

を譲り、名誉門主に就いた。2014年1月1日、京都市内で遷化。103歳。 [脚注の使い方] ^ 天皇陛下の叔父、東伏見慈洽氏が死去 103歳 (2014/1/1 21:41) (日本語) ウィキメディア・コモンズには、東伏見宮に関するカテゴリがあります。 東伏見宮家御家族の写真アルバム (日本語)

伏見宮貞常親王

伏見宮貞常親王(ふしみのみや さだつねしんのう)は、室町時代の皇族。二品式部卿。世襲親王家の伏見宮第4代当主。 貞成親王の第二王子。母は庭田経有(宇多源氏)の女の庭田幸子(敷政門院)。後花園天皇(現在の皇室の祖)は兄、称光天皇は三従兄にあたる。御息所は庭田重有の女の庭田盈子。後花園天皇の猶子。 妃:庭田盈子

伏見宮貞愛親王

伏見宮第22代および第24代当主。 幼名は敦宮。親王は初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年(文久2年)旧暦11月に還俗し家督を継ぐ。1864年(元治元年)いったん伏見宮を離れ家督を父宮の邦家親王に渡す。そして1872年(明治5年)、再度伏見宮を継承し第24代当主となる。

伏見宮貞成親王

の断絶とともに伏見宮領に組み込まれた)。 応永32年(1425年)2月、称光天皇の皇太弟小川宮が没すると、貞成はかねてから病弱で継嗣もなかった天皇の皇儲の候補となり、4月16日には後小松院の猶子として親王宣下を受けた。しかし、このことは天皇の逆鱗に触れることとなり、貞成はわずか3カ月後の閏6月3日に

伏見宮邦家親王

ともに京都を離れて東京に移住する。4月10日、家督を第14王子貞愛親王に譲り隠居する。同年8月5日薨去。71歳。 邦家親王は、父・貞敬親王と同様に子福者であった。特に成人した男子が多かったために、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけを作った人物と目されている。 父母:伏見宮貞敬親王、家女房・藤原誠子

伏見宮貞敬親王

東本願寺光浄宝如室 第7王子:某王(苞宮、1816) 第9王女:宗諄女王(1816-1891) - 霊鑑寺門跡 第10王女:政子女王(1817-?) - 錦織寺宅慈養子、高田瑞泉寺室 第11王女:隆子女王(1818-1860) 第8王子:尊常法親王(1818-1836) - 一乗院門跡 第9王子:某王(和宮、1819)

伏見宮邦道親王

伏見宮邦道親王 大宰帥の辞令(口宣案)(「伏見宮代々位記宣旨類」) 上卿 姉小路中納言 慶安四年十一月十三日 宣旨 無品親王邦道 宜任太宰帥 藏人頭右大辨藤原俊廣奉 (訓読文) 上卿 姉小路中納言(姉小路公景従二位権中納言) 慶安4年(1651年)11月13日宣旨 無品親王邦道(伏見宮) 宜しく太宰帥に任ずべし

伏見宮邦頼親王

伏見宮邦頼親王(ふしみのみや くによりしんのう)は、江戸時代の皇族。世襲親王家の伏見宮第18代当主。伏見宮貞建親王第2王子。幼称ははじめ孝宮、後に堯宮と改める。旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王の祖父であり、第119代天皇光格天皇 (第122代明治天皇の曽祖父) の三従兄にあたる。

伏見宮貞致親王

奉養育也、定次者定元之男定子の弟也。(「伏見宮実録」) 貞致親王依讒言自承応二年到于萬治三年御沈淪、七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々、明珍者理忠氏也。(「伏見宮実録」) 承応元年貞致親王御童形形廿一歳ニシテ自丹州御帰洛、是貞清親王ノ依御招也、到于茲於于定次ノ宅奉養

伏見宮貞敦親王

第四王子:任助法親王(1525-1584) - 仁和寺門跡 第一王女:位子女王(1529-1616) - 二条晴良室 第五王子:応胤入道親王(1531-1598) - 梶井円融房、天台座主、のち還俗 生母未詳 第二王女:恵彭女王 - 安禅寺 第三王女:尊智女王(?-1602) - 中宮寺住持 第四王女:周恭女王 - 総持院 四親王家御系譜

伏見宮貞清親王

伏見宮貞清親王(ふしみのみや さだきよしんのう)は、江戸時代初期の皇族。世襲親王家の伏見宮第10代当主。伏見宮第9代当主邦房親王第一王子。後陽成天皇の猶子。妃に宇喜多秀家の女で前田利長の養女、おなぐの方(おなくの方)。 慶長10年(1605年)12月24日に元服し、二品兵部卿に任ぜられる。 王子女 御息所:宇喜多秀家の娘

伏見宮貞行親王

園天皇の第二皇子。母は一条富子。幼称は、二宮。 宝暦10年6月伏見宮邦忠親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した。宝暦13年(1763年)10月親王宣下を蒙る。貞行と命名される。明和9年(1772年)6月17日二品に叙せられるが、同20日薨去。13歳。伏見宮は先代邦忠親王の弟、寛宝入道親王が還俗して継承した。法名、真浄明院。

伏見宮貞建親王

第三皇女:寿子女王(千代宮、1742-1790) - 東本願寺乗如室 第四皇子:尊真入道親王(喜久宮、1744-1824) - 准三后、天台座主、施無畏王院 家女房 第四皇女:賢子女王(安津宮、1745-1789) - 広幡前豊室、解脱香院 第六皇子:某(万数宮、1748-1751) - 覚円院