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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

六条有房

和漢の学才に優れ、儒書を講じて自説を他人に授けた一方、二条為世から二条派の歌学を伝受。『新後撰和歌集』以下の勅撰集に24首、連歌集『菟玖波集』には11句が入集した。一説に京極派の歌論を批判した『野守鏡』『歌苑連署事書』の作者とする。伏見院に酷似する能筆でも知られた。

คำที่เกี่ยวข้อง

六条

(1)平安京の条坊の一。 また, 東西に通じる大路の名。 六条大路。 (2)〔六条にあったことから〕 西本願寺および東本願寺のこと。 (3)「六条豆腐」の略。

六条家

鎌倉時代前期の太政大臣・久我通光の五男六条通有を家祖とする。家格は羽林家、旧家。 家祖の通有は右近衛中将止まりだったうえ父から遺領に預かれなかったが、その子有房は後宇多上皇の信任を得て院使として朝幕間の交渉に当たり、内大臣まで昇進した。また有房とその息子有忠は書道家と歌人として名声を得た。

六条院

数多くの華やかな行事・儀式の舞台となっている。源氏と紫の上の没後、女三宮は三条宮に移ったが、孫の女一宮が東の対に住み、同じく二宮も寝殿を休み所とした(匂宮)。 夏の町は花散里と夕霧が住み、後に玉鬘が西の対に加わる。夏向けに泉があり山里風に木々を配し、南側に池、東側に馬場殿と馬屋が設けられている。馬

六条麦

むぎ、1971年6月30日 - )は、日本の漫画家。男性。福岡県北九州市出身、埼玉県川越市在住。主に成人向け漫画雑誌で活動していた。 一般企業を退職後、さえわたるの紹介で漫画を執筆、編集部に持ち込む。このときの作品「ひみつのアフタースクール」が1994年『コミックSHAKE』(東京三世社)に掲載され漫画家

篠房六郎

おいて四季大賞を受賞。自画像を女性として描くこともあるが、男性である。 SF作家の伊藤計劃、漫画家の糸杉柾宏は武蔵野美術大学時代の先輩にあたる。 『空談師』 講談社〈アフタヌーンKC〉全3巻 クラン同士の対決が繰り広げられるオンラインゲームに、一人の凄腕のプレイヤーが参加した。その頃このボードではク

六一書房

六一書房(ろくいちしょぼう)は、東京都千代田区神田神保町にある書店・出版社。アジア輸入学術図書、歴史学・考古学を中心とする学術図書を多く販売・出版している。新刊本は「六一考古通信」によって紹介される。 専門家むけの学術書が多く、各種シンポジウム・発表会にともなう資料図書、また、各種研究会・考古学会

三条公房

以後昇進して、建保3年(1215年)12月に内大臣となる。建保6年(1218年)順徳天皇のもとで従一位・太政大臣に叙任される。承久3年(1221年)承久の乱後の12月に上表して致仕。嘉禎元年(1235年)9月に出家し法名を空寂とした。建長元年(1249年)8月16日薨去。享年71。

一条房冬

中脇 2017. ^ 『お湯殿の上の日記』 ^ 『二水記』 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年) 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年

九条道房

学問の関わりは寛永11年3月に後水尾上皇からの命令で書き写した源氏物語の野分を高倉永慶を通じて進上したこと、寛永12年に源氏物語伝授である源氏三ヶ秘決を父から伝授されたことが挙げられる。一方、寛永14年(1637年)に母方の従妹に当たる明正天皇の摂政である兄を関白に改めて任命しようとした後水尾上皇

三条実房

90番 花留客といへる心をよみ侍りける 散りかかる花のにしきは着たれども帰らんことぞ忘られにける 140番 暮見卯花といへる心をよみ侍りける 夕月夜ほのめく影も卯の花の咲けるわたりはさやけかりけり 362番 清見潟関にとまらで行く船はあらしのさそふ木の葉なりけり 458番 跡もたえしをりも雪にうづもれて帰る山路にまどひぬるかな

北条時房

男子:北条時村…相模次郎。承久2年(1220年)出家(法名・行念)。嘉禄元年(1225年)12月没 男子:北条時定…相模六郎 男子:忠源…延暦寺の僧。僧正 女子:一条頼氏妻 女子:北条朝時妻 女子:安達義景妻 女子︰千葉時胤妻 女子:長井時広妻 養子 北条時広…相模七郎。次男時村の子 北条時隆…相模八郎。次男時村の子

一条房通

良の兄、そして房通自身にとって祖父でもある初代当主教房以来2度目である。 天文15年(1546年)、細川氏綱の命で京都を占領・支配していた細川国慶が軍費の確保のために強引に京都の市中から地子銭を徴収しようとした際には、中御門宣胤や山科言継と共に武力をもって抗議しようと計画し、これに同調した室町幕府の

一条教房

一条 教房(いちじょう のりふさ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。摂政関白太政大臣・一条兼良の長男。 応永30年(1423年)6月、一条兼良の長男として誕生。 永享10年(1438年)に元服。一条家の歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、第6代将軍・足利義教から一字拝領

一条房家

った戦国時代の天皇と公家衆たち』洋泉社、2015年) 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年) 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年 中村市史編纂室編『中村市史 正編』(1969年) 林守政

北条綱房

元服後は兄同様北条氏綱からの偏諱を受け綱房と称した。天文13年(1544年)閏11月に作成された「江島遷宮寄進注文」には「孫九郎ゐんきょ」「孫九郎」「孫次郎」「孫次郎殿御内」「松田殿御内儀」の名前があり、それぞれ綱成兄弟の母、綱成、綱房、綱房の妻、妹(松田盛秀の妻)に比定されている。 天文15年(1546年)、河越夜戦のおり、

一条房経

一条 房経(いちじょう ふさつね、1347年 - 1366年)は一条家6代目当主。1358年は従五位下、従四位上、右近衛少将、左近衛中将。1359年は正四位下、従三位、播磨介。1360年は正三位。1361年は権中納言。1362年は権大納言。1363年は従二位。父は一条家5代目当主の一条経通。 一条家

九条房実

九条 房実(くじょう ふさざね)は、鎌倉時代後期の公卿。関白・九条忠教の子。官位は従一位・関白。九条家8代当主。後一音院関白と号す。 兄・九条師教の養子となり九条家を継ぐ。正安元年12月(1300年1月)元服し、従五位上・侍従に叙任。翌年には従四位下・右近衛中将に叙任。同年中に正四位下に進む。正安3

二条尹房

。関白を辞して井家荘に下向し、同10年(1541年)まで直務を行って上洛を果たした。同13年(1544年)4月、尼子氏と大内氏との抗争調停のために一旦出雲国(一説に備後国)へ下向したが、大内義隆の招きもあり、翌14年(1545年)以降は次男良豊とともに周防国山口に滞在した。

文室有房

が突如ふたたび秋田城を襲撃した。夷俘の猛烈な攻撃の前に官軍が壊走する中、有房は一人奮戦し敵数名を斬る活躍を見せたが、足に矢を被け撤退する。後日その戦闘の功績を賞されて、従五位下に叙せられている。 その後解決に向け、出羽権守・藤原保則や鎮守府将軍・小野春風が