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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

合骨咄禄毘伽可汗

成功可汗は源休を許して釈放すると、散支将軍の康赤心らを源休に随わせて唐に入朝させた。 貞元3年(787年)8月、武義成功可汗は首領の墨啜達干および多覧葛の将軍の合闕達干(アルプ・キョル・タルカン)らを唐へ遣わして方物を貢納させ、和親を請うついでに求婚をさせた。徳宗はこれを許可し、咸安公主を嫁がせることにした。

คำที่เกี่ยวข้อง

毘伽可汗

默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン(古テュルク語: - Bilgä qaγan)の漢字表記名。 阿史那骨咄禄の子として生まれる。 阿史那骨咄禄が天授(690年 - 692年)の初めに病死すると、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が代わって可汗位に就いた。

乙毘咄陸可汗

Kānā)の子である薄布特勤を迎えて、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。 貞観15年(641年)、唐の太宗は左領軍将軍の張大師に命じて乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。一方、この頃の西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って来た時に、お互い

咄陸可汗

咄陸可汗(Türük qaγan、漢音:とつりくかがん、拼音:Duōlù kĕhàn、? - 634年)は、西突厥の可汗。莫賀設の子。咄陸可汗(テュルク・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は泥孰(でいしゅく)という。大渡可汗(たいとかがん)とも称した。

滕里野合倶録毘伽可汗

滕里野合倶録毘伽可汗(とうりやこうくりょくびがかがん、拼音:Ténglǐyĕhéjùlùpígā Kĕhàn、? - 808年)は、回鶻可汗国の第8代?可汗。氏名は不明。原音はテングリデ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä alp külüg bilgä

莫賀咄侯屈利俟毘可汗

莫賀咄侯屈利俟毘可汗(Baγatur külüg sibi qaγan、漢音:ばくかとつこうくつりしひかがん、拼音:Mòhèduōhóuqūlìsìpí kĕhàn、? - 630年)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄

阿史那骨咄禄

文明元年(684年)、阿史那骨咄禄は朔州を寇略し、人吏を殺掠した。唐の武則天は詔で左武威衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使とし、これに備える。 垂拱2年(686年)、阿史那骨咄禄はまた朔州・代州などの州を寇略した。唐は左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道総管とし、副将中郎将の蒲英

乙毘射匱可汗

毘咄陸可汗に拘束されていたので、乙毘射匱可汗はことごとく礼資をもって長安に送り帰し、ふたたび遣使を送って方物を貢納し、請婚した。太宗はこれを許可し、詔令で亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の五国を分割し、聘礼(結納品)とした。5月、太宗が崩御すると、阿史那賀魯が反乱を起こし、乙毘射匱可汗の部落はそれに併合された。

可汗

〔khaghan の音訳〕 ⇒ ハン

木汗可汗

木汗可汗(Muqan qaγan、漢音:ぼくかんかがん、拼音:Mùhàn kĕhàn、? - 572年)は、突厥の可汗。乙息記可汗の弟。木汗可汗というのは称号で、姓は阿史那氏、名は燕都という。俟斤(イルキン)というのは官職名で、名ではない。『隋書』では木杆可汗と表記。原音はムカン・カガン(mwx'nx'γ'n

乙屈利失乙毘可汗

は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、貞観14年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護、バガテュル・ヤブグ)を迎え、乙毘沙鉢羅葉護可汗(

骨咄葉護

骨咄葉護(呉音:こちとちようこ、漢音:こつとつようこ、拼音:Gŭduō yèhù、? - 742年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。姓は阿史那氏、名は不明。骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)というのは称号・官職名である。 開元22年(734年)、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒

咄咄

※一※ (副) (1)舌うちをするさま。 「之を讃美せざるは, ~日本人の本色にあらず/日本風景論(重昂)」 (2)怒ったり, おどろいたりするさま。 「~, 何等の物乎(モノカ), と先づ驚かさるる異形の屏風巌/金色夜叉(紅葉)」 ※二※ (形動タリ) 驚いて嘆声を発するさま。 また, 叱咤(シツタ)したり舌打ちしたりするさま。 「舎利弗(シヤリホツ), 一音をいだして~と叱し給ふに/太平記24」 <i>~人に逼(セマ)る</i> 〔世説新語(排調)〕 詩文や書画などの技芸がたいそう優れているのに驚嘆してほめる語。 「神秘の気とつとつとして人に迫ること覚ゆ/囚はれたる文芸(抱月)」

乙毘沙鉢羅葉護可汗

乙毘沙鉢羅葉護可汗に鼓纛を賜わせた。この頃西突厥では、乙毘沙鉢羅葉護可汗と乙毘咄陸可汗が頻繁に攻撃し合っていたので、太宗は乙毘咄陸可汗が遣使を送って宮闕に詣でて来た時に、和睦するよう説得した。この時の乙毘咄陸可汗の兵衆は次第に強盛となっていったので、西域諸国はふたたびこれに帰服した。しばらくして、乙

牟羽可汗

『旧唐書』では「迴紇九姓可汗(ウイグル・トクズオグズ・カガン)」とある。 ^ 『新唐書』では「倶録莫賀達干」。 ^ 回紇軍が東京(洛陽)に来ると、彼らは賊が平定されたことを理由に、ほしいままに残忍な振る舞いをしたので、男女はこれを恐れて、みな洛陽の聖善寺と白馬寺の2閣へ登って避難した。回紇軍は火

葛勒可汗

迴紇公主を封じて毘伽(ビルゲ)公主とした。粛宗は彭原に在って、これを甚だ厚遇した。 至徳2載(757年)2月、葛勒可汗はまた首領および多覧葛の将軍ら15人に入朝させた。9月、粛宗は李承寀に開府儀同三司を加え、宗正卿に拝し、迴

車鼻可汗

車鼻可汗(呉音:しゃびかがん、漢音:しゃひかがん、拼音:Chēbí kĕhàn、生没年不詳)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。突厥別部の突利部出身。車鼻可汗というのは可汗号で、正しくは乙注車鼻可汗(いつちゅうしゃひかがん、Yǐzhùchēbí kĕhàn)といい、姓は阿史那氏、名は斛勃(こくほつ、Húbó)という。

葉護可汗

」としてこれを固辞した。こうして何度も譲り合った末、結局処羅侯が葉護可汗として即位し、雍虞閭は葉護となった。葉護可汗は隋に遣使を送って朝貢し、隋から旗鼓を賜い、西の阿波可汗(アパ・カガン)を西征し、阿波可汗を生け捕った。その後、葉護可汗はまた征西した際(第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版))、流れ矢

白眉可汗

白眉可汗(呉音:びゃくみかがん、漢音:はくびかがん、拼音:Báiméi kĕhàn、? - 745年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。判闕特勤の子で烏蘇米施可汗の弟。可汗になる前が白眉特勤(はくびテギン)だったため、白眉可汗と呼ばれる。姓は阿史那氏、名は鶻隴匐(こつりょうふく)という。阿史那氏最後の突厥可汗であった。

阿波可汗

うとしたが、その母が卑賤の生まれだったので、国人たちは貴人の母をもつ菴羅を可汗とした。大邏便はまたも可汗位に就けなかったので、毎回人を遣わして菴羅を罵辱させた。これに対処しきれなかった菴羅は可汗位を従兄の爾伏可汗(ニワル・カガン)摂図に譲り、第二可汗に退いた。可汗に即位した摂図は沙鉢略可汗(イシュバ