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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

坊城

[ぼうじょう]
都城で坊ごと囲った垣。

คำที่เกี่ยวข้อง

坊城家

1350年) 坊城俊冬 (1319年 - 1367年) 坊城俊任 (1346年 - 不詳) 坊城俊継 (不詳 - 1412年) 坊城俊国 (不詳 - 1426年) 坊城俊秀 (1423年 - 1465年) 坊城俊顕 (1443年 - 1471年) 坊城俊名 (1463年 - 1540年) 坊城俊昌 (1582年

坊城駅

坊城駅(ぼうじょうえき)は、奈良県橿原市東坊城町にある、近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線の駅。駅番号はF26。 1929年(昭和4年)3月29日:大阪鉄道の古市 - 久米寺(現在の橿原神宮前)間延伸時に開業。 1943年(昭和18年)2月1日:関西急行鉄道が大阪鉄道を合併。関西急行鉄道天王寺線の駅となる。

坊城俊章

坊城 俊章(ぼうじょう としあや)は、日本の公家、陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。 山城国京都で坊城俊克の長男として生まれ、父の養子で従兄弟の坊城俊政の養子となる。安政4年11月25日(1858年1月9日)に元服し昇殿を許される。元治元年12月25日(1865年1月22日)侍従となる。

坊城中子

句を詠んだ。2011年、『花鳥』主宰を息子の坊城俊樹に譲り、名誉主宰に就任する。句集に『櫓櫂』、エッセイ集に『俳句の家』。 2021年8月16日午後1時、老衰のため東京都渋谷区の病院で死去。93歳没。 『艪櫂 坊城中子句集』21世紀伝統俳句シリーズ 日本伝統俳句協会, 1999.12 『俳句の家』角川学芸出版

坊城俊昌

文禄4年(1595年)、権中納言・坊城俊名の没後、55年に渡り中絶していた坊城家を再興。 慶長14年(1609年)7月19日、参議に叙官されるが同年に没。極位は、従四位上。 父:勧修寺晴豊 母:土御門有脩の娘 養父:坊城俊名 妻:松倉重政の娘 男子:勧修寺経広 男子:坊城俊完 生母不詳の子女

坊城俊政

坊城 俊政(ぼうじょう としただ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。 山城国京都で坊城俊明の六男として生まれ、父の弟坊城俊克の養子となる。天保8年3月28日(1837年5月2日)に元服し昇殿を許される。安政4年5月15日(1857年6月6日)侍従となる。以後、右少弁、蔵人、御祈奉行、左少弁、賀茂

坊城俊民

1937年(昭和12年)秋、学習院高等科 (旧制) 3年のとき、当時中等科 (旧制) 1年の平岡公威(作家・三島由紀夫)と相識る。三島の文才を最も早く認めた者の一人で、三島と大部の文学的な手紙を毎日やりとりし、三島の短篇『詩を書く少年』のRのモデルとなった。

坊城俊周

2011年(平成23年)5月31日)は、日本の実業家。宮中歌会始披講会会長。 東京市で伯爵・坊城俊良の四男として生まれる。1947年、学習院高等科文科を卒業。1948年から宮内庁式部職嘱託となり、歌会始講師(こうじ)、宮中歌会始披講会会長を務めた。 1949年、文化放送に入社。1958年、フジテレ

坊城俊樹

NHK俳壇選者。2011年、母・中子より「花鳥」主宰を継承(第3代)。「ホトトギス」同人。日本伝統俳句協会理事・事務局長を務める。句集に『零』『あめふらし』、他の著書に『切り捨て御免』『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』(東直子、やすみりえ共著)など。南日俳壇(南日本新聞)選者。信濃毎日新聞俳壇選者。

坊城俊克

坊城 俊克(ぼうじょう としかつ)は、江戸時代後期の公卿。坊城俊親の子。坊城俊明の養子。官位は従一位・大納言。 京都で誕生する。文化10年(1813年)叙爵。職事を長年にわたって務め、職事の主席である頭弁(蔵人頭兼右大弁)に昇る。嘉永3年(1850年)参議、左大弁。安政4年(1857年)権中納言とな

坊城俊完

坊城 俊完(ぼうじょう としまた)は、江戸時代の公家(公卿)。 堂上家(家格は、名家、藤原北家高藤流勧修寺庶流)である、坊城家の11代当主。 参議・坊城俊昌の次男。母は豊後守・松倉重政の娘。正室は木工頭・岩倉具尭(岩倉家の祖)の娘。継室は、大和守・織田尚長(柳本藩主)の娘。実子に権大納言・坊城俊広など。

坊城定資

坊城 定資(ぼうじょう さだすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、権大納言・坊城俊定の嫡男。官位は正二位・権中納言。坊城家2代当主。 建治4年(1278年)従五位下に叙爵。弘安3年(1280年)従五位上に進み、弘安8年(1285年)に正五位下・左兵衛佐に叙任。正応元年(1288年)中宮権大進を兼ねた。

坊城俊良

坊城 俊良(ぼうじょう としなが、1893年〈明治26年〉8月15日 - 1966年〈昭和41年〉5月30日)は、日本の宮内官、神職、華族(伯爵)、皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司。 1893年、東京市で、伯爵・坊城俊章の四男として生まれる。学習院で学んだ。 兄・坊城俊徳の死去に伴い、明治44年(1911年)2月3日、伯爵を襲爵した。

東坊城家

東坊城家(ひがしぼうじょうけ)は、菅原氏五条家支流にあたる公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家。 五条長経(正二位・参議・刑部卿、1242年 - 1315年)の次男東坊城茂長(正三位・参議・治部卿、1284年 - 1343年)を祖とする。 本家の五条家がもともと坊城

東坊城恭長

の映画俳優としてキャリアが始まる。最初にクレジットとして記録に残っている作品は村田実監督の『青春の歌』で、同作は1924年12月5日に鈴木傳明主演作として浅草三友館を皮切りに全国で公開された。 翌1925年には、溝口健二監督の『小品映画集《街のスケッチ》』や翌1926年の村田実監督の『故郷の

東坊城和長

々を見ても、唐橋家と五条家は東坊城家と同様に当主の早世で振るわず、西坊城家は後継者不在、残る高辻家の当主で氏長者でもあった高辻長直は和長から見れば「芸無才」の人物であった 。しかも和長が8歳の時に始まった応仁の乱によって朝儀は衰退し、朝儀に必要な有職故実や紀伝道の知識も喪失の危機にあった。

東坊城徳長

1922年〈大正11年〉8月8日)は、日本の華族。御歌会奉行、貴族院議員を務める。官位は正三位勲三等子爵。大学頭東坊城任長の子。幼名は信丸。 父の隠居に伴い1878年(明治11年)7月に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。後に宮中に仕え、御製取調掛、掌典、明治天皇御製臨時編纂部員、御歌所参候、御歌会

坊

※一※ (名) (1)僧侶の居所。 転じて, 僧侶。 房。 「僧~」「お~さん」 (2)男の幼児を親しんで呼ぶ称。 江戸時代には女児についてもいった。 「~や」「~はどこの子だい」 (3)(ア)唐の都城制に倣った条坊制の一区画。 四周を大路で囲まれた区域をさし, これがさらに小路によって一六の町(坪)に分かれる。 (イ)条坊制で, 左京・右京おのおのの各条を四坊に分かつ大路。 南北に通じ, 東西に通じる「条」に対する。 (4)皇太子の居所「東宮坊」から転じて, 皇太子をいう。 「~にもようせずは, この御子のゐ給べきなめり/源氏(桐壺)」 ※二※ (代) 一人称。 男の幼児が自分をさし示していう語。 「それは~のだよ」 ※三※ (接尾) (1)人の名に付けて, 親しみや軽いあざけりの意を表す。 「お春~」「けん~」 (2)人の様態を表す語に付いて, そういう人であることを表す。 上にくる語によって「ぼ」「んぼ」「んぼう」の形にもなる。 「朝寝~」「赤ん~」「赤んぼ」「暴れん~」「けちん~」「けちんぼ」 (3)僧侶の通称や坊号などの下に添えて用いる。 「武蔵~弁慶」「法界~」

坊

〔「ぼう(坊)」の転〕 (1)男児に対する愛称。 坊や。 坊ちゃん。 主に関西地方で用いる。 (2)僧。 坊さん。 「ただ今おはなし申しましたはこの~でござりますわいな/滑稽本・膝栗毛 7」 〔(1)は近世上方語では, 古く男児・女児どちらにも用いた。 「~か, よう来たなあ/浄瑠璃・壇浦兜軍記」〕