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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

守邦親王

24年9か月と在職期間が最長であった。また、親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。8代将軍久明親王の子。 8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘の間の子として生れる。 延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。同年9月

คำที่เกี่ยวข้อง

邦良親王

を皇太子にする事には不安もあった(『神皇正統記』には当時、親王は鶴膝(鶴膝風)を患っていたと記している)。そこで祖父である後宇多上皇の要請を受けた鎌倉幕府は、後二条天皇の在位が大覚寺統・持明院統間の皇位移譲約束である10年より短い事を配慮して、花園天皇の後に大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを

守貞親王

太上法皇。 高倉天皇の第二皇子であり、母は坊門信隆の女・殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんの みや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょ にゅうどう しんのう)を名乗ったが、子の後堀河天皇が即位すると、治天の君として異例の太上

邦子内親王

天皇准母、皇后宮。院号は安嘉門院(あんかもんいん)。法名は正如覚。父は守貞親王(後高倉院)、母は持明院基家の女・御息所陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母姉に利子内親王(式乾門院)がいる。 八条院領の大部分を含む膨大な荘園群を父から譲られ成立した安嘉門院領は、この後、亀山院、後宇多院、昭慶門

守澄法親王

守澄法親王(しゅちょうほっしんのう、寛永11年閏7月11日(1634年9月3日) - 延宝8年5月16日(1680年6月12日))は、江戸時代の皇族。初代輪王寺宮門跡(日光門跡とも呼ばれる)。東叡山(寛永寺)・日光山輪王寺貫主。天台座主。朝廷より二品・一身阿闍梨・一品・護持・牛車・検封阿闍梨などの宣下を受ける。号は本照院。

守覚法親王

性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。 和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『

親王

(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。 (2)(父である神に対して)キリストを敬っていう語。 「神の~」「救いの~」 (3)親王。 親王宣下を受けた天皇の皇子。 「仁和のみかど, ~におましましける時に/古今(春上)」 (4)他人を敬ってその子をいう語。 「主を殺さぬ事, ~の君ぞしらせ給へる/読本・春雨(捨石丸)」

親王

〔「しんおう」の連声〕 皇族男子の身位の一。 律令制では, 天皇の兄弟・皇子をいったが, 淳仁天皇(在位 758-764)以後は親王宣下のあったもののみに限られた。 旧皇室典範では, 皇子から皇玄孫にわたる皇族男子をいった。 現制度では, 嫡出の皇男子および嫡男系嫡出の皇孫の男子をいう。 ⇔ 内親王

花町宮邦省親王

皇太子に譲位すると知った邦省親王は室町幕府に対して両統迭立の原則に則って次の皇太子に自分を立てるように要望した。だが、幕府執事(後の管領)上杉重能の籌策(計略)によって握り潰された。重能は足利尊氏の弟直義の側近であり、皇統を北朝に一本化しようとする直義の意向を受けたものと考えられている。

伏見宮邦家親王

ともに京都を離れて東京に移住する。4月10日、家督を第14王子貞愛親王に譲り隠居する。同年8月5日薨去。71歳。 邦家親王は、父・貞敬親王と同様に子福者であった。特に成人した男子が多かったために、明治期以降の伏見宮系皇族隆盛のきっかけを作った人物と目されている。 父母:伏見宮貞敬親王、家女房・藤原誠子

伏見宮邦道親王

伏見宮邦道親王 大宰帥の辞令(口宣案)(「伏見宮代々位記宣旨類」) 上卿 姉小路中納言 慶安四年十一月十三日 宣旨 無品親王邦道 宜任太宰帥 藏人頭右大辨藤原俊廣奉 (訓読文) 上卿 姉小路中納言(姉小路公景従二位権中納言) 慶安4年(1651年)11月13日宣旨 無品親王邦道(伏見宮) 宜しく太宰帥に任ずべし

伏見宮邦頼親王

伏見宮邦頼親王(ふしみのみや くによりしんのう)は、江戸時代の皇族。世襲親王家の伏見宮第18代当主。伏見宮貞建親王第2王子。幼称ははじめ孝宮、後に堯宮と改める。旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王の祖父であり、第119代天皇光格天皇 (第122代明治天皇の曽祖父) の三従兄にあたる。

伏見宮邦永親王

皇子:貞建親王(若宮、1700-1754) - 第15代伏見宮 家女房:薗氏 皇子:尊孝入道親王(静宮、1701-1748) - 東大寺別当 家女房:近藤氏 皇女:輔子女王(基宮、1710-1759) - 今出川公詮室 皇女:増子女王(比宮、1711-1733) - 徳川家重室 家女房 皇子:道承入道親王(直宮、1696-1714) -

伏見宮邦輔親王

第八王子:邦茂王(1530-1570) 生母未詳 第一王子:某王(1544-1555) 第五王子:尊朝法親王(1552-1597) - 天台座主 第六王子:守理法親王(?-?) 第七王子:最胤法親王(円明院、1563-1639) - 天台座主 第一王女:智曉(?-?) 第二王女:某女王(1563-1578) 四親王家御系譜

梨本宮守脩親王

梨本宮守脩親王(なしもとのみや もりおさしんのう、文政2年10月29日(1819年12月16日) - 1881年(明治14年)9月1日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の皇族。梨本宮初代。伏見宮貞敬親王の第10王子。伏見宮邦家親王の弟。王子幼称は、万代宮。

渡辺守邦

近世初頭の印刷と出版』青裳堂書店 1987 日本書誌学大系 『表紙裏反古の諸問題 ワークショップ』実践女子大学文芸資料研究所 2004 公開講演会報告書 如儡子『可笑記 武士はくわねど……』訳 教育社新書、1979 『蔵書印提要』島原泰雄共編 青裳堂書店 1985 日本書誌学大系 『新日本古典文学大系

邦芳王

少年期は陸軍幼年学校にも入学していたが、後に病を発症した。邦芳王が「不治の病」を患ったことがきっかけで、昭徳王薨去以降、精神が沈みがちであった母の利子女王(1927年薨去)は「脳の病」を発症するに至った。 1904年(明治37年)、「不治の病」を理由とした請願により邦芳王は廃嫡され、異母兄で華頂宮を継承

邦寿王

そよそしい。新婚旅行をしないのは、皇室ではそのような例はないからと言われて納得していたが、どうもおかしい。新婚の夢が無残に破れウツウツとする龍子だった。 結局洋子は1952年7月27日に死去したが、その後も、邦寿が、関西方面に出張する時は、墓参りを忘れず、法事にも毎回出席した。失業中の洋子の父親の

志賀親守

[脚注の使い方] ^ 通称は主計。寿閑、浄閑とも。清田鎮忠の婿養子・凉泉院の夫。洗礼名はドン・ペドロ。熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹凉泉院系」によると、凉泉院は清田鎮乗寿閑の妻。養母は大友宗麟の娘 エピローグ「清田家系図 志賀親度室。実は奈多夫人と先夫・服部右京亮の女。

王守道

為然、未幾、果為所害。及仙以城反為金、史氏之人与属県旁近豪傑、納天倪之弟天沢為主帥、攻仙。時史天安在白霫、聞変、率兵亦至、遂復真定。仙走保西山諸寨、執守道家人、以重幣誘之、守道不顧、日与史氏部曲昆弟徴発調度以復讎、卒逐仙遁去」 ^ 『元史』巻153列伝40王守道伝