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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

尊王

[そんのう]
〔「そんおう」の連声〕
王室や皇室をとうとび, 天皇を国政の中心と考えること。 勤皇。
「~派」

คำที่เกี่ยวข้อง

尊王論

自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。 世に尊王家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也

尊秀王

測が生まれる余地を残すかたちとはなっている。 なお、尊秀王が禁闕の変の後、行方不明となったというのは『康富記』嘉吉3年9月26日条として「鳥羽ハ暗跡落失不知行方云々」とあることに基づく。一方、菅政友が書くように尊秀王は比叡山で討たれたという説もあって、『東寺長者補任』では「大将南方高秀也、頸取之」、

国尊王

国尊王(くにたかおう、生没年不詳)は、鎌倉時代の皇族。三品・惟明親王の子。無位無官か。片野宮あるいは交野宮と称した。『本朝帝系抄』の「雲林宮麿尊王」も国尊王に比定される。 幼少の頃、醍醐にて外祖父の白河染殿僧都に養育されていた。承久3年(1221年)、父の惟明が亡くなるが、それからわずか1か月後に承

宗尊親王

三品 宗尊親王 右被左大臣宣偁件親王宜爲征夷大將軍 建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼奉  (訓読文) 三品 宗尊親王 右、左大臣(鷹司兼平)の宣を被るに偁(い)はく、件(くだん)の親王、宜しく征夷大将軍に為すべし 建長4年4月1日 大外記中原朝臣師兼(押小路師兼)奉(うけたまは)る 親王

尊良親王

尊良親王(たかよししんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。一品中務卿親王(いっぽんなかつかさきょうしんのう)とも呼ばれる。後醍醐天皇第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。瓊子内親王および征夷大将軍宗良親王の同母兄。

尊王攘夷

通)、1858年(安政5年)の時点で欧米への留学を希望していた吉田寅次郞(吉田松陰)・桂小五郎(木戸孝允)、1861年(文久元年)に建白によって航海遠略策を幕府に認めさせた長井雅楽、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた、久坂義助(久坂玄瑞)など)。 ところが、幕府側の度重なる弾圧によって尊王攘夷

尊真法親王

尊真法親王(尊眞法親王・そうしんほうしんのう、寛保4年1月19日(1744年3月3日) - 文政7年3月17日(1824年4月16日))は、江戸時代後期の法親王。伏見宮貞建親王の第四皇子で、母は家女房の岡本応子。幼名は雄香宮(おかのみや)、後に喜久宮。諱は成輔。字は良璠。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある。

尊子内親王

懐子。賀茂斎院、のち第64代円融天皇妃。別名火の宮、承香殿女御。同母弟に花山天皇。 康保4年(967年)、父・冷泉天皇即位により内親王宣下。康保5年(968年)7月、斎院に卜定、12月に初斎院に入る。天禄元年(970年)、紫野斎院に入る。天延3年(975年)、母・懐子

尊円法親王

、明治期の宝物調書『古器物目録』『宝物調書』(東京国立博物館蔵)に本像の名を見出せないこと、また箱書から一時は慈鎮像として伝来した可能性があることなどから、厳密には『高僧像』『伝尊円法親王像』と呼ぶべき作品のようである(福島恒徳「尊円法親王像をめぐって」『ホノルル美術館名品展

尊珍法親王

尊珍法親王(そんちんほっしんのう)は、鎌倉時代後期の法親王。静尊法親王(じょうそんほっしんのう)あるいは恵尊法親王(えそんほっしんのう)とも。聖護院門跡・園城寺長吏・准三宮。亀山上皇の皇子で、母は民部卿三位。征夷大将軍護良親王の異父兄。 後醍醐天皇の義理の息子(血筋上の叔父)に当たるが、『太平記』で

尊朝法親王

青蓮院門跡をわずか4歳で継承するが、門跡の職務を行い得なかった。これに対して青蓮院傘下とされていた浄土真宗本願寺の顕如は朝廷に働きかけて、永禄2年(1559年)に本願寺の門跡昇格を果たしている。成長後の尊朝法親王は書道に優れ、青蓮院流から、その別流の尊朝流

尊証法親王

尊証法親王(尊證法親王・そんしょうほっしんのう、慶安4年2月10日(1651年3月31日) - 元禄7年10月15日(1694年12月1日))は、江戸時代前期の法親王。後水尾天皇の第十七皇子で、母は園基子(新広義門院)。幼名は玲瓏宮(ゆらのみや)、諱は周賢。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある。

尊助法親王

助法親王が次の門主となるが、尊助・道玄・慈助の三者が不仲となったらしく、弘安元年(1282年)には尊助が慈助から門主を取り返した道玄に対して悔返を宣言して、道玄から門主の地位を取り戻し、改めて慈禅の弟弟子である慈実を後継者とした。このため、慈助

尊

〔形容詞「とうとし」の語幹〕 とうといこと。 「あら~青葉若葉日の光/奥の細道」

尊

※一※ (名) 中国, 古代の盛酒器。 器形については諸説あるが, 口部がらっぱ状をしているものとするのが一般的。 殷(イン)周時代の青銅製の祭器がよく知られている。 ※二※ (接尾) 助数詞。 仏を数えるのに用いる。 「釈迦三~」

尊

〔「御(ミ)事」の意〕 ※一※ (名) 神や貴人の名前の下につける尊称。 「素戔嗚(スサノオノ)~」 〔日本書紀では, 「尊」を最も貴いものに, 「命」をその他のものに使う〕 ※二※ (代) 中古後期には, 人を軽く見たりからかったりした気持ちで用いる。 (1)二人称。 おまえさん。 あんた。 「白事(シレコト)なせそ, ~/今昔28」 (2)三人称。 おかた。 ひと。 「この~は本よりかくえもいはぬ物狂とは知りたれども/今昔28」

尊超入道親王

をこじらせた尊超入道親王は、その後次第に容態を崩し、同年7月7日(8月21日)に薨去。享年51。しばらくの間喪は秘され、その間に一品に叙せられている。同年の8月21日(10月4日)に正式に発喪された。法号は大光明院照蓮社耀誉阿芬陀梨尊超大和尚で、一心院内の知恩院宮墓地に葬られた。

尊道入道親王

応永9年(1402年)2月27日、関白左大臣二条師良の息である道順に天台座主を譲り、応永10年(1403年)7月5日、花園妙心院において入滅。享年72歳。 当代随一の貴僧であり、公武の祈祷に尽力した。足利義詮以降、室町幕府との関係が強く、特に足利義満には気に入られ、度々義満のために祈祷を修した。応永6年には、義満が建立した相国寺塔供養の導師を務めている。

尊父

他人の父を敬っていう語。