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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

尸

[しかばね]
〔「しにかばね」の意〕
(1)死んだ人の体。 死骸(シガイ)。 かばね。
「生ける~」
(2)「尸冠(シカバネカンムリ)」に同じ。
<i>~に鞭(ムチ)打・つ</i>
死んだ人の悪口を言う。 死屍(シシ)に鞭打つ。
<i>~を晒(サラ)・す</i>
野外で死に, 弔われずに放置される。

尸

[かばね]
(1)死体。 死骸。 しかばね。
「~を山野にさらす」「~に鞭(ムチ)打つ」
(2)骸骨。
(3)「尸冠(シカバネカンムリ)」に同じ。

คำที่เกี่ยวข้อง

尸諫

身命を捨てて主君をいさめること。

尸毗

⇒ 尸毗王

三尸

道教で, 人の腹の中にすむといわれる三匹の虫。 この虫が庚申(コウシン)の夜, 人の寝ている間に天に昇って, その罪過を上帝に密告すると長生きできないという。 → 庚申待

尸素

「尸位素餐(シイソサン)」の略。

尸子

『尸子』に「天地四方を宇といい、往古来今を宙という」と言う(『世説新語』排調篇の劉孝標注に引く)。「宇宙」という言葉はこれにもとづく。 「渇しても盗泉の水を飲まず」の故事は『尸子』を出典とする(『史記』鄒陽列伝の索隠などに引用する)。 Paul Fischer, Shizi: China's First

尸部

日本:しかばね・かばねだれ・かばね・しかばねかんむり 中国:尸字頭 韓国:주검시부(jugeom si bu、しかばねの尸部) 英米:Radical corpse 尸 広韻 - 式脂切、脂韻 詩韻 - 支韻、平声 三十六字母 - 審母三等 日本語 - 音:シ(漢音・呉音) 訓:しかばね 中国語 -

伊尸品王

伊尸品王(いしひんおう、明王、? - 407年4月10日)は、金官伽倻の第5代の王(在位:346年 - 407年)。父は居叱弥王、母は阿志である。王妃は貞信、息子に第6代の王である坐知王(神王)がいる。 表示 編集 表示 編集

伊陵尸逐就単于

延熹9年(166年)、張奐が大司農となり中央に配属され、辺境から張奐が去ったことを知った鮮卑は、南匈奴・烏桓と連合し縁辺九郡を侵した。朝廷はこれを憂い、ふたたび張奐を護匈奴中郎将とし、これらを討たせた。南匈奴・烏桓は張奐が復職したことを知るとすぐに降伏し、鮮卑は塞を出て去っていった。 張奐は単于が国内を統率する能力に欠けている

醢落尸逐鞮単于

儀を護衛した。比の弟の莫が南単于の位に就き、帝は使者を送り、璽を印した書を持たせて慰撫し、璽綬を送り、冠・幘・絳単衣3着・童子佩刀・緄帯各1を送った。また、繒・彩四千匹を賜って諸王・骨都侯以下に賞賜させた。それからというもの、単于が薨去した際の弔祭・慰賜はこれを常例とした。 『後漢書』(南匈奴列伝)

屠特若尸逐就単于

屠特若尸逐就単于(ととくじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Tútèruòshīzhújiùchányú, ? - 177年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊陵尸逐就単于の子。屠特若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は不明。 熹平元年(172年)、伊陵尸逐就単于が薨去すると、屠特若尸逐就単于として即位した。

萬氏尸逐侯鞮単于

。単于檀は使者を送って降伏を願い出て、龐雄らに対し帽子を脱いで陳謝した。朝廷はこれを許し、処遇も元の通りとした。 建光元年(121年)、鮮卑が辺境を寇掠したので、度遼将軍の耿夔は温禺犢王の呼尤徽とともに、新降者を率いて連年長城を出て鮮卑を討伐し、新降者を得ては要害の地に配し、また出兵があればその新降

亭独尸逐侯鞮単于

として即位した。早速、降伏していた北匈奴人が師子を夜襲したが、師子は安集掾の王恬とともにこれを破った。しかしこれを機に新降の北匈奴人15部20万人が蜂起し、休蘭尸逐侯鞮単于の子の薁鞬日逐王逢侯を擁立して、漠北に逃走しようとした。朝廷は行車騎将軍の鄧鴻・越騎校尉の馮柱・行度遼将軍の朱徽を派遣して

湖邪尸逐侯鞮単于

湖邪尸逐侯鞮単于(こしゃしちくこうていぜんう、ピンイン:Húxiéshīzhúhóudīchányú, ? - 85年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢落尸逐鞮単于の子、醢僮尸逐侯鞮単于の弟。湖邪尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は長という。去特若尸逐就単于の父。 醢落尸逐鞮単于の子として生まれる。

呼蘭若尸逐就単于

た。兜楼儲は漢の順帝より符節と璽綬を拝受し、青蓋の四頭引きの馬車・鼓車・安車・駙馬騎・玉具刀剣・什物・彩布2千匹を賜り、単于の閼氏(妃)以下にも金錦錯雑具・軿車(婦人用輕車)・馬2乗を賜った。朝廷は行中郎将を随行させて兜楼儲を南単于庭(南匈奴の首都)に帰らせた。11月、使匈奴中郎将の馬寔は刺客を使っ

休蘭尸逐侯鞮単于

谷蠡王師子・右呼衍王須訾らを分けて北単于を稽落山で大破させ、北単于は遁走した。追撃し、私渠比鞮海に至り、名王以下数万3千級を斬首、生口・馬・牛・羊・橐駝(ラクダ)など百余万頭を獲得した。この戦いで温犢須・日逐・温吾・夫渠王の柳鞮ら81部20余万人が投降した。竇憲と耿秉は燕然山に登り、塞を去ること3千余里、そこに記念石碑を建てた。

醢僮尸逐侯鞮単于

Hǎitóngshīzhúhóudīchányú、 ? - 63年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢落尸逐鞮単于の子。醢僮尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は適という。 醢落尸逐鞮単于の子として生まれる。 永平2年(59年)、伊伐於慮鞮単于が薨去すると、単于として即位した。

烏稽侯尸逐鞮単于

烏稽侯尸逐鞮単于(うけいこうしちくていぜんう、拼音: Wūjīhóushīzhúdīchányú、 ? - 128年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。湖邪尸逐侯鞮単于の子。烏稽侯尸逐鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は抜という。 湖邪尸逐侯鞮単于の子として生まれる。

去特若尸逐就単于

与していなかったので、すぐに帽子を脱ぎ、梁並のところに行って謝罪した。その後、梁並が病気になったので、代わりに五原太守の陳亀が使匈奴中郎将となると、陳亀はさらに単于を責め立てた。それにより単于休利は弟の左賢王とともに自殺してしまった。 この後しばらく正式な単于が立たなくなる。 『後漢書』(南匈奴伝)