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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。 「やましろ」は、古くは「山背」「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。 この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている。

คำที่เกี่ยวข้อง

山崎城 (山城国)

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言

城山城 (讃岐国)

扁平な長方形に加工された石。現時点で計2個。 マナイタ石 蹴放しを付して長方形に加工された石。現時点で計1個。前述のように城門から白峰宮境内に移されたもので、長さ2.5メートル・幅1.1メートルを測り、上面に蹴放しが加工される。 明神原遺跡 城山東側にある祭祀遺跡。烏帽子岩を中心に巨石が点在し

城山城 (播磨国)

現在、嘉吉の乱による城山落城の際に討ち死にした赤松一族らの供養塔が本丸跡や麓の集落に多数建てられており、赤松一族の霊を弔うための盆供養「さいれん坊主」が毎年8月14・15日に行われている。赤松一族の末裔らによる「さいれん坊主保存会」によって祭礼の伝承がなされている。 本丸跡 本丸跡の赤松一族供養の石造物

山城町国政

日本 > 四国地方 > 徳島県 > 三好市 > 山城町国政 山城町国政(やましろちょうくにまさ)は、徳島県三好市の町名。2021年(令和3年)2月28日現在の人口は94人、世帯数は48世帯。郵便番号は779-5321。 三好市の西部に位置。北は山城町末貞、西は山城町岩戸、南は山城町重実、東は吉野川を

指月 (山城国)

父・藤原頼通にならい、「臥見亭」「臥見別業」などと称された伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家たちを招き、指月の森や巨椋池の風光明媚な様を愛で、詩歌管弦に耽ったり、酒を楽しんだりしたと云われている。俊綱没後に、伏見山荘は白河上皇に寄進される。 伏見山荘が後白河上皇に伝承された際、上皇はここに壮麗な

山城

(1)〔古くは「山背」「山代」とも書かれた〕 旧国名の一。 五畿内の一。 京都府の南東部に当たる。 城州(ジヨウシユウ)。 (2)京都府南部, 相楽(ソウラク)郡の町。 木津川中流右岸を占め, 野菜・タケノコ・茶などを産する。 (3)徳島県西端, 三好郡の町。 四国山地にある山村。 大歩危(オオボケ)・小歩危(コボケ)の峡谷で有名。

城山

城山(しろやま、じょうやま、きやま、ぐすくやま、じょうさん) 同名の山数としては日本で一番多く、276山ある。中世の山城に由来。 岩手県上閉伊郡大槌町にある標高141mの山。 岩手県紫波郡紫波町にある標高181mの山。 宮城県大崎市にある標高108mの山。 山形県山形市にある標高230mの山。 福島県福島市にある標高144mの山。

平山城 (下総国)

「千学集抜粋」によれば、「康胤御子胤持、輔胤、孝胤、勝胤まで以上5世は平山に在しければ、平山よりご参詣在りて、妙見宮にて御元服也。(中略)屋形様千葉より平山へ御越し、又長崎へ移らせらる。孝胤(中略)平山に居り佐倉へ御上り也」とある。 城郭内の配置や形状については、現在、土塁や空堀がところどころ分断されており、明確でな

葛山城 (信濃国)

葛山落城の際火攻めにあったため、倉跡には焼米が出るという。 城に篭った婦女子らは身を葛山の絶壁に投げた。本丸北東の谷で、そこを姫谷という。 端午の節句には葛山山頂に赤い旗が翻るのが松代町から見える。ただし松代町以外からは見えないという。 葛山城址碑 - 「市指定史跡 葛山城跡」石碑と屋根のついた木製「葛山城」説明案内板。 主郭跡

福山城 (備後国)

されていた。昭和46年(1971年)に駐車場となったが、事前調査のないまま開発されている。遺構は完全に破壊されたと思われる。 西御門 平屋の渡櫓門で三の丸の西側にあった。明治初期に取り壊された。外枡形を持ち城下とは木橋で結ばれていた。門自体の遺構は何も残されていないが、外枡形の一部は福塩線の高架下に保存されている。

勝山城 (長門国)

門のあった三の丸に横矢枡形が発見されるなど、縄張りも詳しく判明した。 砲撃の目標となることを防ぐため櫓は建てられていない。また、乱積み・山縣積みなどの伝統的な工法で石積みされた石垣の上に土塁を設けるなど、砲撃戦を意識した城塁が特徴的であり、近世城郭と幕末の台場の構造を組み合わせた近世最終期の城郭である。

郡山城 (大和国)

の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。 10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀

山城国分寺跡

なお、『続日本紀』天平15年(743年)条に見える「大養徳国金光明寺」について、通常は東大寺(奈良県奈良市)を指すと解されるが、山背国分寺を指すとして同年までの創建の支証とする説もある(「大養徳国」は大和国の当時の表記であるが、恭仁宮も正式名称は「大養徳恭仁大宮」であった)。 天平19年(747年)には、諸国国分僧寺

金山城 (美濃国)

古城山の中腹に存在した居館。森氏の家老であった細野左近の館で、南東側で物見台と隣接している。屋敷は削平にした東西約14メートル、南北約15メートルの台地上の東端に存在した。屋敷の門の礎石と、建物の礎石が現存している。 南東方物見櫓 左近屋敷の南側にある物見台に存在した櫓。約6メートル四方の台地上に置かれた。 水の手

滝山城 (摂津国)

滝山城の築城年代は定かではないが、文献上の初見で、「正慶2年(1333年)4月より下向人申云、3月17日赤松入道京都七条まで打ちいるといえどもおしかえすべく、帝は六派羅の北殿に御入云々、赤松は本の生田の布引の城にこもる云々、その後八幡に陣を取る云々」(『正慶乱離志』)とあり、この「生田の布引の城

丸山城 (伊賀国)

残る遺構から判断して築城半ばに廃城になった城とは到底考えられない」としていたり、平定の後、信雄比城を滝川三郎兵衛尉雄親に給ふ、其後、雄親当国の諸士と累月戦ひ、国中悉く平きしかば信雄其考を感じ雄親を以て当国の守護とす(『諸国廃城考』)と記されていたりする。滝川三郎兵衛尉雄親とは滝川雄利の別名で、丸山城

平山城 (大隅国)

1454年)に島津氏第9代島津忠国の弟、島津季久が、平山氏第9代平山武豊を討って帖佐郷を領有した。敗れた平山氏は指宿へ、一族は鹿児島の武村へ移された。季久は、別府川の対岸に瓜生野城(建昌城)を築いて居城とし、平山城には次男の忠康を配し、平山氏の名跡を継承させた。また、季久の三男の満久は隣郷の加治木氏の養子とし、季久の威勢は近隣に及んだ。

福山城 (備中国)

福山城(ふくやまじょう)は、岡山県総社市清音三因(きよねみより)にあった日本の城。国の史跡。 福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城である。南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となった。 奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していた。建武2年(13

高山城 (大和国)

曲輪2 九頭龍王を祀る十三重塔が設置されており、2006年に整備されたハイキング道の終点に当たる。 中心曲輪群の南に隣接するように位置し、中心曲輪群との間に堀切などは見えず遮断はされていない。そのため中心曲輪群の南側の守りを固める役割を担い、一体となって運用されたと見られる。また曲輪2の南側斜面は断崖状の急傾斜となり、要害性が高い。