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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

山本寺定長

定長(さんぽんじ さだなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。山本寺上杉家当主。不動山城主。 山本寺上杉家は上杉氏庶流で、天正3年(1575年)の軍役帳によれば、上杉一門としては6番目の家格に位置している。父は山本寺定景、母は長尾能景の娘か。上杉房能に殉じた山本寺定種の孫といわれる。

คำที่เกี่ยวข้อง

山本寺景長

あった。 生年は不明ながら若年であったとみられ、遺児は後に出家して林泉寺十八世渓厳曹雪和尚となったという。 弟(子とも)の藤三郎勝長は御館の乱で景虎方に与し、敗北後は閑居していたが、後に上杉家に帰参した。文禄3年(1594年)、直江兼続が伏見城の普請奉行をしていた頃に故あって

長谷本寺

は新庄藩藩主であった桑山修理亮により本堂が再建されている。1722年の大和国葛下郡高田寺寺内町寺社帳には本堂、境内地や年貢地等が詳しく述べてある。「午睡庵和歌」や「竹園日記」等の話の中にも記されている。 滋賀県の高島郡三尾の白蓮華谷に約30m程の楠が生えていた。この木は常に輝き、芳しい香りがする不思

花山院長定

長定(かざんのいん ながさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。右大臣・花山院家定の三男。官位は正二位・内大臣、右大将。護法院と号す。花山院家10代当主。 兄2人が早世したために三男にして花山院家を継いだ。しかし長定自身も30代で辞官・出家しまい、子の兼定は若年にして家を継がねばならなくなる。

山本長水

かたつむり山荘(高知県長岡郡大豊町、1969年)2002年第4回日本建築家協会25年賞(住宅部門) 高知県立美術館(高知県高知市、1993年) 高知県立中芸高校格技場(高知県安芸郡田野町、1994年)1999年日本建築学会賞、第22回JIA25年賞 相愛本社(高知県高知市、1996年)1998年日本建築学会作品選奨

定光寺

獅子の門 竜の門 築地塀 焼香殿(祭文殿) 宝蔵(祭器蔵) 唐門 源敬公墓  附:参道、殉死者墓9基、石柵4所 太刀 銘助重 太刀 銘守家 ※ 源敬公廟と尾張徳川家納骨堂は定光寺でなく、個人(尾張徳川家)の所有。 祠堂帳 木造地蔵菩薩坐像 - 本尊 定光寺境内 展望茶屋 展望台から名古屋方面を望む 源敬公廟

定勝寺

定勝寺(じょうしょうじ)は、長野県木曽郡大桑村須原(すはら)にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は浄戒山。本尊は釈迦如来。 木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺のひとつ。 日本最古の「蕎麦切り」(一般的に言われる「そば」)に関する文書が発見されている。 嘉慶年間(1387年 –

定善寺

1977年(昭和52年)12月4日 - 現在の本堂が完成。本建寺を定善寺内に移転。 宮崎県日向市大字財光寺7295。 毎年、虫払い法要は御会式終了後に行われ、地元では「おまんだらさま」として親しまれ、テレビ中継が行われるほど有名である。 日向市立財光寺小学校 日向財光寺郵便局 日豊本線日向市駅から徒歩15分

峰定寺

1巻 紙本墨書解深密教及結縁文 1巻 貞慶筆 紙本墨書梵文陀羅尼 1巻 紙本墨書結縁文(阿弥陀仏祈願、行守祈願、証阿弥陀仏祈願、祈願者不明)4枚 樹葉墨書結縁文 6葉 納入品の銘記から鎌倉時代初期、正治元年(1199年)の作とわかる。像高約50.6cmの小像。波形の衣文

定額寺

定額寺(じょうがくじ)とは、奈良・平安時代に官大寺・国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院で、その歴史上での展開には諸説ある。 定額寺の「定額」が一体何を指しているのかについては、諸説があって結論が出されておらず、従ってその具体的な定義を行うのは困難である。

定本

十分な校訂がなされて, 本文が整った本。 また, 著者が訂正・加筆した決定版。

西山本門寺

1960年(昭和35年)由比日光の遷化。由比日光の後継指名により、日蓮正宗は吉田日勇(下条妙蓮寺)を兼任住職として任命。 1975年(昭和50年)裁判は最高裁まで争われたのち、檀家側の勝訴。吉田日勇は本寺より退去し、旧門末の福正寺の森本日正が正式に後任住職として着任。 現住は52世・森本日重(福正寺より晋山)。

北山本門寺

1670年(寛文10年)9月12日、重須本門寺客殿・庫裡・垂迹堂等焼失。 1672年(寛文12年)12月16日、重須本門寺累年の火災により住持日優退寺す。 1673年(延宝1年)10月13日、重須本門寺梵鐘改鋳、鐘楼・二天門・表門造営。 1675年(延宝3年)1月30日、重須書院より出火5ケ坊・

山科本願寺

山科本願寺(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた。 周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。

亀山本徳寺

なお、最寄駅の山陽電鉄亀山駅は、昭和19年(1944年)まで亀山御坊駅と称した。 2万㎡の広大な境内を持ち、本堂・大広間・庫裡・経堂が兵庫県指定文化財となっている。本堂は兵庫県内有数の大型の仏堂である。この本堂は明治元年(1868年)に旧本堂が火災で焼失した後、西本願寺の北

石山本願寺

焼、國家ノ費也、本願寺上下雑賀ヘノキ了云〻、天文元一揆ノ比ヨリ歟、山階ヲノキ至當年四十八・九年歟、榮花ニホコリ、天下ヨリモチセキ富貴ノ處、一時頓滅盛衰眼前〻〻、日中飯に東林院殿・(西屋)蓮成院・堯舜ヽ、西屋雨にて不出、英俊 著、辻善之助 編『多聞院日記』三「巻二十四 - 巻三十一」、三教書院、1935年、P

長寿寺 (熊本市)

尊の1つ。九州三十六不動霊場第19番札所。 毎年2月28日の大祭には、修験者が素足でおき火の上を渡る「火渡り」や、煮えたぎった釜の熱湯の中に座る「湯立て」の荒行が行われ、数万人の参拝客でにぎわう。 延暦(782~806)年中、伝教大師最澄の開基と伝えられる。往時は、西国第一の談義所と言われる寺勢を誇った。

長楽寺 (松山市)

尊を探し求め中津の橋の下で発見し、洪水から10年後の享保10年(1725年)現在地に再興を果たす。 なお、境内には、伊予絣創始者の鍵谷カナ俳人の村上霽月(せいげつ)の墓所がある。 大日堂:山門に向かって右前の境外にある。金剛界大日如来、脇に弘法大師坐像。 山門 本堂:阿弥陀如来立像 護摩堂:本尊・薬師如来立像、毘沙門天立像、不動明王立像

上杉朝定 (山本寺上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、室町時代前期の武士。越後国守護である越後上杉氏の分家の一つ、山本寺上杉家の祖とされる。 応永25年(1418年)、上杉朝方の子として誕生したとされる。不動山城を築いたのは朝定とも、朝定の子とされる山本寺定種とも云われる。 山本寺上杉

本寺

「ほんざん(本山)」に同じ。