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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

後朱雀天皇

1046年) 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 ^ 『後朱雀天皇』 - コトバンク 『摂関期古記録データベース』国際日本文化研究センター(『後朱雀天皇御記』の読み下し文を公開)

คำที่เกี่ยวข้อง

朱雀天皇

は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御

祐子内親王 (後朱雀天皇皇女)

祐子内親王(ゆうし(すけこ)ないしんのう、長暦2年4月21日(1038年5月27日) - 長治2年11月7日(1105年12月15日))は、後朱雀天皇第3皇女、母は中宮・藤原嫄子(敦康親王女で藤原頼通養女)。別名高倉一宮あるいは高倉殿宮(高倉宮)。同母妹に禖子内親王。藤原師通を養子とした。

正子内親王 (後朱雀天皇皇女)

- 永久2年8月20日〈1114年9月20日〉)は、第69代後朱雀天皇の第5皇女。母は女御・藤原延子(藤原頼宗の娘)。後冷泉、後三条両朝の賀茂斎院。押小路斎院、また土御門斎院とも号した。 後朱雀天皇の崩御から3ヶ月後に誕生。天喜6年(1058年)6月27日、異母姉・禖子内親王の後をう

禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)

禖子内親王(ばいし〈みわこ〉ないしんのう、長暦3年8月19日〈1039年9月10日〉 - 嘉保3年9月13日〈1096年10月1日〉)は、後朱雀天皇の第4皇女。母は中宮・藤原嫄子、同母姉に祐子内親王。後冷泉天皇朝賀茂斎院、号は六条斎院。 誕生後わずか10日で母后・嫄子が崩御し、姉・祐子内親王と共に祖

朱雀

⇒ すざく(朱雀)

朱雀

(1)四方をつかさどる天の四神(シジン)の一。 鳥の姿で表され, 南方に配する。 朱鳥。 しゅじゃく。 (2)二十八宿のうち, 南方七宿の総称。 (3)「朱雀大路」「朱雀門」の略。

朱雀

⇒ すざく(朱雀)

朱雀帝

立たなかった。 柔和な性格の人物で、容姿・教養すべてに優れた異母弟の源氏に引け目を感じつつも兄として優しく接し、源氏と朧月夜の密通を知っても彼女を許し寵愛した。しかし母である弘徽殿大后その他の源氏追放を止められず、源氏が須磨に蟄居した後、夢枕に立

朱雀門

、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。和銅7年(714年)、これを漢風に改め、四神において南方を

朱雀院

朱雀院(すざくいん)は、平安時代の天皇の累代の後院のひとつ。 朱雀大路西、三条南・四条北に位置し、右京四条一坊東の8町を占めた(これは大内裏に次ぐ規模である)。建物は寝殿造で、内裏に準じて仁寿殿、宜陽殿などもあったことが知られる。 嵯峨天皇の時代(承和年間頃)に成立したと見られ、宇多天皇が整備して

後西天皇

(原論文:2018年)は、明暦の大火と翌年正月の江戸大火における朝廷の対応の拙さが原因で幕府から退位を迫られたとする説を採る(明暦の大火ではその被害の大きさにも関わらず災害祈祷が実施されず、翌年の火災を受けて明暦4年3月5日に初めて江戸火災に対する祈祷が行われた)。 ^

後一条天皇

一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。 一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。 三条天皇の譲位(長和5年1月29日、1016年3月10日)により践祚、2月7日(3月18日)に数え

後冷泉天皇

歓子立后にあたっては中宮章子が皇太后、皇后宮寛子が中宮とされ、歓子は皇后宮とされた。その後、後三条天皇の后の馨子内親王の立后にあたって、章子が太皇太后、寛子が皇太后、歓子は皇后宮のままとされ、新立の馨子が中宮となり、通例に戻された。 寛徳(1044年 - 1046年) 永承(1046年 - 1053年)

後陽成天皇

家衆もこれに同意を与えてしまった。この命令は所司代板倉勝重に伝えられたものの、勝重は官女の取り調べを行うなど慎重に動き、9月23日には家康の意向が朝廷に伝えられた。天皇は自ら処罰することを諦め、家康の裁断に任せると回答した。これにより勝重の裁定で猪熊・兼康が処刑されたものの、公家衆

後柏原天皇

窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後柏原天皇は、以下の和歌を詠じた。 心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ わが身の罪がいかに多いか 鏡にはすべて映しだされようが われはひたすら望む 心だけでも浄土を目指そうと 典侍:勧修寺藤子(豊楽門院)(1464年

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されている。 広島県三次市作木町香淀大山にも「天皇山」と呼ばれる山があり、後鳥羽院御陵と呼ばれる陵が存在し、同じく三次市作木町香淀川毛には後鳥羽院尊儀という角石塔が伝えられている(後鳥羽伝説)。 佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院地区にも隠岐島を逃れた後鳥羽院

後深草天皇

草上皇は、翌建治元年(1275年)、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、時の関東申次で後深草上皇寄りの西園寺実兼(大宮院の甥)が執権北条時宗と折衝し、後深草上皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。その後、弘安3年(1280年)頃から後深草上

後桜町天皇

御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった。 代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御

後伏見天皇

保2年(1318年)の間、院政を敷いた。花園天皇の在位の間、幕府と折衝し持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行おうとした(文保の御和談)が失敗に終わった(両統迭立を参照)。 文保2年(1318年)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。その皇太子には大覚寺統の邦良親