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รายละเอียดคำ

扶風郡

東晋の末年、三輔の流民を集めて漢中に西扶風郡を僑置された。南朝宋のとき、西扶風郡は秦州に属し、郿・武功の2県を管轄した。南朝斉のとき、西扶風郡は郿・武功の2県を管轄した。 455年(南朝宋の孝建2年)、秦州・雍州の流民を集めて北扶風郡を僑置された。北扶風郡は秦州に属し、武功・華陰・始平の3県を管轄した。

คำที่เกี่ยวข้อง

右扶風

右扶風(ゆうふふう)は、古代中国の官職名、またはその治める行政区域名。 漢代に置かれ、長安周辺の県を統治した。官秩は二千石。 秦のとき、首都周辺を統治するのは内史であった。項羽により雍国とされ、紀元前205年(高祖2年)に中地郡として漢に編入された。紀元前198年(高祖9年)に内史に戻された。紀元

扶風県

扶風県(ふふう-けん)は中華人民共和国陝西省宝鶏市に位置する県。 街道:城関街道 鎮:天度鎮、午井鎮、絳帳鎮、段家鎮、杏林鎮、召公鎮、法門鎮 高速道路 連霍高速道路 絳法高速道路(中国語版) 国道 G344国道(中国語版) 法門寺

扶安郡

扶安郡に編入。扶安郡に以下の面が成立(10面)。 扶寧面・舟山面・東津面・幸安面・保安面・山内面・白山面・上西面・下西面・乾先面 1931年7月1日 - 乾先面が茁浦面に改称(10面)。 1943年10月1日 - 扶寧面が扶安邑に昇格(1邑9面)。 1963年 - 全羅南道霊光郡蝟島面を編入(1邑10面)。

扶餘郡

画像提供依頼:郡庁の建物の外観の画像提供をお願いします。(2013年4月) 扶餘郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都・泗沘があった。過疎化で若干人口減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶餘邑。 忠清南道西南部、錦江(白馬江)流域に位置し、

風早郡

明治22年(1889年)12月15日 - 町村制の施行により、下記の各村が発足。全域が現・松山市。(12村) 浅海村 ← 浅海本谷村、浅海原村 難波村 ← 下難波村、中通村、上難波村、庄村[大部分] 立岩村 ← 才之原村、滝本村、猪木村、猿川村、中村、米之野村、庄府村、儀式

扶養

たすけ養うこと。 生活の面倒をみること。 「幼い妹たちを~する」

扶桑

愛知県北西部, 丹羽郡の町。 木曾川下流に位置する近郊農業地域。

扶持

そばにいてたすけささえること。 ふち。 「官府これを~すること能はず/西国立志編(正直)」

扶助

(経済的に)たすけること。 援助すること。 「~を受ける」「困窮者を~する」「~料」

扶余

古代のツングース系民族の一。 また, 夫余族が紀元前一~後五世紀に中国東北部に建てた国。 一~三世紀中頃に全盛, のち鮮卑と高句麗に挟まれて衰え, 494年勿吉(モツキツ)に滅ぼされた。

家扶

もと皇族・華族の家で, 家令を補佐した者。

相扶

互いに助け合うこと。 相互扶助。

扶桑

(1)昔, 中国で, 東方の海中にあるという神木。 日の昇る所という。 また, その木のある地。 扶木。 (2)日本の異名。 扶桑国。 「松島は~第一の好風にして/奥の細道」 (3)太陽。 「全く~の光なし/中右記」

扶持

(1)たすけること。 面倒をみること。 「渠等(カレラ)を~すべき責任/義血侠血(鏡花)」 (2)武家の主君が家臣に与えた給与の一種。 江戸時代には一日玄米五合を一日扶持とし, これを標準に何人扶持と称して一年間分の米や金が下級武士に与えられた。 (3)俸禄を与えて家臣として抱えること。 「この信濃入道を~し給けり/徒然226」 (4)扶持米。 転じて, 食糧, 食い扶持などの意。

扶育

育てること。 たすけ育てること。

扶植

(勢力などを)うえつけること。 「自己の勢力を~するに汲々(キユウキユウ)たるを/思出の記(蘆花)」

源扶

源 扶(みなもと の たすく)は、平安時代中期の武士。『将門記』に前常陸大掾・源護の長男として登場する。 『将門記』によれば、承平5年(935年)の2月のある日、扶は弟の隆・繁と共に、野本で平将門を待ち伏せた。退くに退けず進むに進めなくなってしまった将門は、それでも憤然とし刃を交えての合戦におよんだ

句扶

句 扶(こう ふ、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の武将。字は孝興。益州巴西郡漢昌県の出身。 『三国志』蜀書王平伝には「忠誠にして武勇があり、寛大な人柄」として記述されている。また、何度か戦功をたて、王平に次ぐ功名・爵位を得たとされる。最終的な軍位は左将軍、爵位は宕渠侯にまで昇った。『華陽国志』

扶蘇

親しい将軍の蒙恬が丞相となり、自分や自分の一族の立場も危うい」と吹き込まれた李斯も趙高の謀略を行う仲間に加わることに同意する。 三人は始皇帝が扶蘇に賜うべく封じておいた文書を破り捨て、始皇帝の詔を偽り、胡亥が太子として立てられた。さらに、(始皇帝の詔と偽り)、皇帝の印を押して封じた文書を作成し、胡亥