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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

支那

[しな]
外国人が中国を呼んだ称。 「秦(シン)」の転という。 中国で仏典を漢訳する際, インドでの呼称を音訳したもの。 日本では江戸中期以後, 第二次大戦末まで称した。

คำที่เกี่ยวข้อง

支那人

支那人(シナじん、シナ人)という言葉は 、中国(支那)本土を中心として居住する漢民族を指す。日本語における支那は地理的概念であり、平安時代に漢訳仏典を通じて中国からもたらされた。支那人とは支那の地域に定住する人間と言った程度の形而上的概念であり、日本では明治期以降、とくに清朝の崩壊が明らかになった1

支那学

支那学(しながく): 第二次世界大戦以前の日本における中国学(シノロジー)の旧称。当時の日本では中国が一般的に「支那」と呼ばれていたことによる。⇒中国学 1920年9月から1947年8月まで刊行されていた日本の中国学専門雑誌(正式な誌名は『支那學』)。当時の代表的「支那学

支那事変

くしじへん)と呼称し、その後、支那事変となった。陸軍省軍事課長田中新一大佐は、8月14日の閣議で「北支事変は日華事変と改称すべきだ。相手が拡大主義だから我が不拡大は成立たない」と言った意見が出ていたと回想している。 1945年12月8日から17日にわたって連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP

支那の夜

を放浪していた桂蘭がその汚れを風呂で落とすと、その美しさに長谷は驚き、桂蘭の日本人に対する誤解を解くことを決意する。 実のところ桂蘭は、上海の資産家の娘で、日本の攻撃によって両親も家も失ったことで、日本人を相当憎んでいたのだった。ある日、高熱を出した桂蘭をホテルに住む日本人や、長谷を慕う

支那の夜 (曲)

蓓蕾 Billie Tam(春的夢) 汪明荃(春的夢) 馮素波(中国之夜) 伍木蘭(売剩蔗)広東語 鄭君綿(輸完又嚟賭過)広東語 呂紅(春来冬去)広東語 麗莎(春来冬去)広東語 林志美(愛的微波)広東語 他、香港映画「四姉妹」(昭和41年)で、劇中歌として広東語で使われている。 台湾 鳳飛飛(春的夢)

支那派遣軍

岡村寧次支那派遣軍総司令官は陸軍中央に電文を送っている。終戦時、支那派遣軍の総兵力は105万を数えた。 通称号:栄(栄集団) 軍隊符号:CGA 編成時期:昭和14年9月12日 最終位置:中国(支那)南京 西尾寿造:昭和14年9月12日~ 畑俊六:昭和16年3月1日~ 岡村寧次:昭和19年11月23日~

支那駐屯軍

鈴木率道大佐 支那駐屯戦車隊:福田峯雄少佐 支那駐屯騎兵隊:野口欽一少佐 支那駐屯工兵隊 支那駐屯通信隊 支那駐屯憲兵隊:赤藤庄次中佐 支那駐屯軍病院 支那駐屯軍倉庫 ^ “支那駐屯軍司令官の親補に関する件 昭和11年4月25日 「支那駐屯軍司令官は之を親補す/附則 本令は昭和11年5月1日より之を施行す」-

支那扇の女

☆多門修(たもん おさむ) 数犯の前科を持つ。かつて助けられた金田一に心酔している。 福井作太郎(ふくい さくたろう) 新聞記者。昭和5年に出版された『明治大正犯罪史』の作者。 ☆木下渓雪(きのした けいせつ) 1924年(大正3年)の『犯罪学研究』に「支那扇の女の冤をそそぐ」という論文を発表した学者。 ☆古館(ふるたて)

支那学 (雑誌)

『支那学』(しながく)は、1920年(大正9年)9月に創刊され、1947年(昭和22年)8月号まで刊行された、日本の学術雑誌である。正式な誌名は『支那學』。 20世紀に入って京都帝国大学文科では、狩野直喜(支那語学支那文学)・桑原隲蔵(東洋史学)・内藤虎次郎(湖南)(同)の3教授を中心に中国学(当時

支那分割論

前に日本も南満州鉄道を梃子にして南満州から河北を抑え、あわよくば江蘇・浙江に進出すべきと説いた。もっとも中島自身は支那分割自体は日本の将来にとっての厄運であり、列強が分割に動いたときに乗り遅れない事に主眼を置いている。また、先に亡くなった伊藤博文の外交政策を日本の賈似道であると難じている。酒巻の説も

北支那開発

北支那開発株式会社(きたしなかいはつ)は、1938年に設立され、1945年まで中国華北において経済開発事業を行った日本の国策会社である。 華北の経済開発を目的とする国策会社は、既に南満洲鉄道(満鉄)子会社の興中公司(十河信二社長)があったが、華北の膨大な資源開発には同社のみで対応することは困難であっ

中支那方面軍

断でこれを越え無錫と湖州の攻撃を準備し、11月22日には南京攻略の必要性を上申している。それに答える形で、11月24日に戦域制限が廃止、12月1日に大本営戦闘序列に編入され、正式に南京攻略が下令され、12月4日から12月13日にかけて南京攻略戦が行われた。 翌1938年(昭和13年)2月14日に、再

支那方面艦隊

艦隊が新編され、第三艦隊と第四艦隊を統轄する支那方面艦隊も同日附で新編された。翌年2月1日には第五艦隊が新編され支那方面艦隊に編入され、支那方面艦隊(第三艦隊、第四艦隊、第五艦隊)は連合艦隊に匹敵する大部隊となった。 支那方面艦隊

北支那方面軍

北支那特別警備隊 防空部隊      高射砲第15連隊:寺田伊平大佐   野戦高射砲第74大隊       野戦高射砲第86大隊:谷脇旦蔵少佐 輸送・勤務部隊     第1水路輸送隊       第23野戦勤務隊本部       第26野戦勤務隊本部 兵站病院       第151兵站病院       第152兵站病院

中支那派遣軍

中支那派遣軍(なかしなはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。 1938年2月14日に終結した南京攻略戦後、上海派遣軍・第10軍の上級司令部であった中支那方面軍を解体し、新たに編制された部隊である。 1939年9月23日には中支那派遣軍と北支那方面軍を統合する上級司令部である支那派遣軍

南支那方面軍

南支那方面軍(みなみシナほうめんぐん)は、1940年(昭和15年)2月9日の大陸命第415号により支那派遣軍戦闘序列に編成された大日本帝国陸軍の方面軍。 司令部には防疫給水部があり、広州第8604部隊又は波第8604部隊と呼ばれた。 1940年(昭和15年)6月22日の広九作戦の後、7月23日から

支那囲壁砲台

支那囲壁砲台(しないへきほうだい)とは、千葉県習志野市にある戦争遺跡である。「一望千里」と呼ばれた習志野原にあって、演習用に中国の家屋を模して作られた砲台のミニチュアであり、銃眼が開いている。習志野名所のひとつ。 2002年に国の登録有形文化財になっている。なお、正式な登録名称は旧陸軍演習場内圍

日本テレビ那覇支局

日本テレビは沖縄がアメリカ合衆国の統治下にあった1961年より、本土(東京都)出身の琉球新報社会部記者(当時)の森口豁(かつ)に「沖縄通信員」として沖縄全域の取材を委託。森口は1963年から「沖縄特派員」として日本テレビへ正式に移籍。沖縄の本土復帰(1972年5月1

テレビ朝日那覇支局

1995年10月にテレビ朝日と琉球放送(TBS系列)の共同で設立した琉球朝日放送(QAB)開局により、テレビ朝日那覇支局は解散。同支局の記者だった石底均ら職員は琉球朝日放送に転籍した。 ちなみに沖縄県では、新聞が輸送上の問題や本土復帰当時の地元有力企業保護等の関係で全国紙は少なく、地元地方紙である