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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

本因坊察元

向四子7目負 酒井石見守 1771年(明和8年) 向二子中押負 安井春哲仙角 1773年(安永2年) 白番中押勝 井上春達因碩 1774年(安永3年) 向二子6目負 本因坊烈元 1776年(安永5年) 向二子中押負 井上因達 1777年(安永6年) 向二子中押負 坂口仙徳 1778年(安永7年) 向六子4目負

คำที่เกี่ยวข้อง

本因坊烈元

1778年(安永7年) 先番中押勝 井上春達因碩 同年 先番17目勝 坂口仙徳 1779年(安永8年) 白番中押負 井上因達 1780年(安永9年) 白番3目勝 坂口仙徳 同年 白番3目負 林祐元門入 1781年(天明元年) 先番4目勝 坂口仙徳 1782年(天明2年) 白番1目勝 井上因達 同年 向二子中押負 安井仙角仙知

本因坊元丈

1823年(文政6年) 白番3目勝 林元美 1824年(文政7年) 白番2目負 井上因砂因碩 その他、河野元虎には元丈先で6勝1敗1ジゴ、服部因淑に先相先で6勝5敗1打掛けなどがある。 代表局 御城碁(文化元年 11月17日)安井知得 - 本因坊元丈(先番) 右辺黒1(45手目)、3が元丈の持ち味の出た手。中央を厚く

本因坊策元

跡目で、道策五弟子の一人と数えられる。法名は日雲。 本因坊道策の跡目道的の死後の元禄5年(1692年)、18歳五段で道策の再跡目となる。この時に兄弟子の桑原道節は争碁を望んだとされるが、道節は井上家を継ぐ。策元はこの年から御城碁に出仕して扶持を得るようになり、毎年出仕して7局を

本因坊秀元

秀元の実力は四段とはいえ評価は高く、秀栄は「古今稀に見る非常に器用な碁で形・姿に明るく」と評していた(『奇美談碁』)。二度目に本因坊就位した1907年から翌年にかけて、『万朝報』紙の坊門勝継戦では七人抜きも達成した。秀哉とは、秀哉の秀栄門下入り以後、多くの対局を遺している。 「八百長」の語源となった八百屋の長兵衛は、回向院近くの碁会所開

本因坊

本因坊(ほんいんぼう) 江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ(→後述の「本因坊家」を参照)。 昭和になって創設された、囲碁の棋戦の一つである本因坊戦に優勝した棋士に贈られるタイトル(→後述の「本因坊戦」を参照)。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた(とされる)日海

本因坊道悦

た。この時に寺社奉行加賀爪甲斐守は、上意に反して番碁を願って負ければ遠島となるとして思いとどまらせようとしたが、道悦は「(負けて)遠島に処せらるるも寸毫の憾なし」と述べて、遂に道悦定先で六十番の番碁を命ぜられた。 算知との争碁は同年御城碁を第1局とし、1671年(寛文11年)第16局までに道悦が9勝

本因坊秀栄

1892年-不明(囲碁奨励会の対局譜を掲載) 名人秀栄棋譜保存会『秀栄全集』大野万歳館 1911年(棋譜256局を収録、編集主任本因坊秀哉、1922年再版) 高川格『秀栄 日本囲碁大系(17)』筑摩書房 1976年 『本因坊秀栄全集』(全三巻)歴史図書社 1977年 高木祥一『流水秀栄 古典名局選集』日本棋院 1996年

本因坊算悦

御城碁での算知との対局の折に、松平肥後守(保科正之)が観戦して、形勢を見て何気なしに「本因坊此碁負と見ゆ」と発言したのを算悦が聞きとがめ、自分が命を賭けて碁に向かうのは武士が戦場に臨むのと同じであると述べて対局をやめようとしたため、肥後守は算悦に謝罪して対局を続けさせた。この算悦の態度が、碁家の気節として賞賛されて語り継がれた。 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社

本因坊秀和

荒木直躬『本因坊秀和全集 (全6巻)』誠文堂新光社 1956-60年 小堀啓爾『秀和 日本囲碁大系14』筑摩書房 1975年 福井正明『堅塁秀和』日本棋院 1995年 福井正明「秀和遺譜」(「圍碁」誌 1996年) 相場一宏、福井正明「碁界黄金の十九世紀(第17、22、26、29回)」(「碁ワールド」誌

本因坊秀哉

その後、1910年には井上田淵因碩五段と十番碁、因碩先で9局目で秀哉が7勝2敗で先二に打ち込むなど、すべての棋士達を先二以下に打ち込んだ。また1910年『新案詰碁死活妙機』(吉川弘文館)を出版。1911年に八段昇段。1914年(大正3年)、41歳の時に名人に推挙され、名実ともに棋界第一人者になる。

本因坊道知

碁は稀であったと言われている。また道知が他三家に名人碁所就位を望んだ際には、御城碁にて「合議的作碁及び譲歩等の交渉に応ぜず、道知一人は実際力量の有らん限り対局すべし」と迫ったともされている。特に名人推薦が決まって御止碁となる前の1720年の最後の御城碁の棋譜は、146手目までが1697年の本因坊道

本因坊道策

算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上、2年後の1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙する。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲、安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから寺社奉行より碁所を命ぜられた。碁所

本因坊算砂

本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち

本因坊秀策

御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時二段)との二子局を秀和に打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に二子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。た

本因坊秀甫

門下、八段準名人、十八世本因坊。法名は日寿。 奔放な棋風で知られる。江戸幕府の庇護がなくなった明治期に囲碁結社方円社を主宰して囲碁界を支え、さらに西欧にまで広める端緒をつくった。著書に『方円新法』など。2007年に囲碁殿堂入り。秀甫の養子の村瀬彪は棋士にならず、第一銀行に勤務した。

本因坊丈策

林柏栄 1838年(天保9年)先番中押勝 林元美 1839年(天保10年)白番3目勝 安井算知 1841年(天保12年)先番中押負 林柏栄 1842年(天保13年)先番9目勝 阪口仙得 同年 白番中押負 安井算知 1843年(天保14年)白番中押勝 林柏栄 同年 先番5目勝 阪口仙得 1845年(弘化2年)先番4目勝

本因坊知伯

人扶持を受けるようになる。享保12年に道知が死去し、知伯が家督を継いで六世本因坊となる。しかし享保18年8月20日に突然卒倒し、家族が医師と各家元に急報したが、その参集を待たずに24歳で死去。急遽家元三家にて、門人で奥州帰郷途中であった18歳五段の佐藤秀伯を家督と定めて寺社奉行に跡目届けを出し、呼び

本因坊丈和

た岡田頼母が老中松平周防守に碁会を勧め、松平宅にて碁所で御止碁となっていた丈和も含めた手合を組む。因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして公儀に訴え出る算段であった。赤星の実力は確かなもので、いったんは優勢に持

本因坊道的

碁界に認められていたことを示している。試しに道策と互先で打ってみたところ、互いに1目勝の打ち分けとなった。 師の道策と同じく、残された棋譜の中には黒番での負けはない。13歳で六段、19歳にして棋聖道策と打ち分けたということから、道的こそ史上最強の棋士ではないかと言われることもある。わずか21歳で夭