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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

李徳妃

庶民の李柰の娘に生まれた。美しかったので、隆慶4年(1570年)2月に徳妃となった。父の李柰は正五品錦衣衛千戸に任じられた。 隆慶6年(1572年)、隆慶帝が崩御した。以後、徳妃は仁寿宮で60年、寡居の生活を送った。崇禎5年(1632年)、薨去した。栄恪と諡され、金山に葬られた。 『明穆宗実録』 『崇禎長編』 『宝日堂雑鈔』

คำที่เกี่ยวข้อง

李宸妃

儀(従一品嬪)にいたった。 真宗が崩ずると、順容(従一品嬪)に進封され、園陵の奉仕にあたった。明道元年(1032年)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく2月に死去した。翌年、皇太后劉氏も崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸

李荘妃

選入内廷、侍我皇考恭勤懋著。天啓三年十二月初三日冊封為荘妃、四年十月二十六日辰時以疾薨。距其生万暦十六年十月十七日亥時、享年三十七歳。惟妃徳性温良、儀容敬慎、我皇考重之、隆眷特嘉。今上追思皇考之意、典礼優異、茲復諡曰恭懿。以天啓四年十二月二十六日葬於翠微山之原。生栄死哀、夫復何憾。儒臣奉志幽宮用垂不朽云。」

蕭徳妃

阿果(後の天祚帝)の妃として宮中に入り、燕国妃に封じられた。耶律撻魯を生んだ。乾統3年(1103年)、徳妃となった。耶律撻魯は燕国王となり、徳妃には賛翼の号を加えられた。乾統4年(1104年)春、耶律撻魯が早逝すると、まもなく徳妃も死去した。 北遼の耶律淳の徳妃蕭普賢女。保大2年(1122年)6月、

李徳裕

堂草木疏記之』を書き、また、彼の没後との庭園が人手に渡ることをおそれて『平泉山居戒子孫記』を書き残した。 『次柳氏旧聞』1巻 『西南備辺録』13巻(佚) 『会昌一品集』20巻 特に『会昌一品集』は、李徳裕が宰相として手腕をふるった6年間に書いた制・詔・上奏文などをまとめたものである。ここには彼が処

李徳懋

[脚注の使い方] ^ “이덕무(李德懋)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月20日閲覧。 ^ 岸本美緒・宮嶋博史 1998, p. 352-353 岸本美緒、宮嶋博史『明清と李朝の時代 「世界の歴史12」』中央公論社、1998年。ISBN 978-4124034127。 p352-p353

李徳生

李 徳生(り とくせい、1916年4月 - 2011年5月8日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍総政治部主任、軍区司令員、中国共産党副主席を務める。最終階級は上将。 1916年河南省光山に生まれる。1930年、紅軍に参加。1932年、中国共産党に入党し、通信小隊長、副隊長、隊長、師団

李龍徳

ったら電話して』で受賞してデビュー。2016年、『報われない人間は永遠に報われない』で第38回野間文芸新人賞候補。2020年、『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』で第42回野間文芸新人賞を受賞する。 『死にたくなったら電話して』(河出書房新社、2014年11月 / 河出文庫、2021年9月) 死にたくなったら電話して

李徳林

李 徳林(り とくりん、531年 - 591年)は、北斉から隋にかけての官僚で歴史家。字は公輔。本貫は博陵郡安平県。子は李百薬。 北魏の鎮遠将軍の李敬族の子として生まれた。博学であり、古典や陰陽の学にも通じていた。また、文章にも秀でていた。北斉の天保8年(557年)、秀才に及第して、通直散騎侍郎とな

李徳明

父の李継遷の業績を発展させたのみならず、外交面でも大勢力である宋・遼の間で巧みな外交手腕を発揮し、西夏の基礎を築いた。 景徳元年(1004年)に李継遷の戦傷死により夏王の地位を継承した。その治世での特徴は宋及び遼に両属した外交姿勢であり、宋・遼に対し臣下を称して冊封を受け、外交的な安定を確保し西域経営を積極的に推進した。

妃

貴人の妻を敬っていう語。 おきさき。 「帝の~をさへあやまち給ひて/源氏(須磨)」

妃

天皇の後宮の一。 皇后の次, 夫人・嬪(ヒン)の上に位する。 内親王を原則とする。 明治以後では皇族の配偶者をいう。

妃

(1)天皇の配偶者。 皇后。 中宮。 また, 女御などで天皇の母となった人。 律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人(3) → 嬪 「二条の~のまだ帝にも仕うまつり給はで/伊勢 3」 (2)王侯の妻。 「王様とお~様」

恒徳王妃光子

恒徳王妃 光子(つねよしおうひ みつこ、1915年〈大正4年〉11月6日 - 2013年〈平成25年〉8月11日)は、日本の旧皇族。竹田宮恒徳王の妃。公爵・三条公輝の次女。 母は、伯爵・正親町実正の長女・静子。旧名は、三条 光子(さんじょう みつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、竹田

正妃

帝王など高貴な人の正妻。

正妃

〔「向かい妻(メ)」の意〕 正妻。 本妻。 「須世理姫を~として/古事記(上訓)」

皇妃

天皇の妻。 皇后。 きさき。

后妃

王侯の妻。 きさき。

王妃

(1)国王の妻。 (2)皇族で王{(4)}の称号をもつ人の妻。

元妃

君主の正妻。 皇后。 「忽に准后(ジユゴウ)の宣旨を下されしかば, 人皆皇后~の思をなせり/太平記 1」