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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

橋畔

[きょうはん]
橋のほとり。 橋のたもと。

คำที่เกี่ยวข้อง

畔

(1)田と田の間の土の仕切り。 あぜ。 (2)平地のうちの少し小高い場所。 [名義抄]

畔

(1)川や池などの水際。 きわ。 ふち。 「川の~」 (2)あるもののかたわら。 そば。 「目の前に見え, 耳の~に聞ゆるが儘なりき/即興詩人(鴎外)」「天満天神の注連の~を心細くも立離れ/平家 8」 (3)端。 果て。 境界。 「東の夷多(サワ)に叛きて~騒き動(トヨ)む/日本書紀(景行訓)」「郷の南の~に勢多河有り/今昔 30」 (4)ある地点の周囲一帯。 また, 場所に関して, 大体の見当を示す。 「此の~近く, 浄き水有る所知りたりや/今昔 16」「高嶋・塩津・貝津の道の~を/平家 7」 (5)ある人の縁につながる人。 「人ひとりを思ひかしづき給はむ故は, ~までも匂ふ例こそあれ/源氏(真木柱)」

畔

田のあぜ。 「営田(ツクダ)の~を離ち/古事記(上)」

畔

(1)土を盛り上げて作った, 田と田の境。 くろ。 (2)敷居や鴨居(カモイ)の, 溝と溝の間にあるしきり。

湖畔

湖のほとり。

墓畔

墓地のかたわら。

河畔

川のほとり。 川端。 川岸。 「セーヌ~」

畦畔

田畑を区切るあぜ。 くろ。

畔吉

もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する畔吉村、古くは南北朝期より見出せる畔吉郷もしくは畔牛郷(あぜうしごう)であった。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では556石余(田126石余、畑430石余)、『元禄郷帳』によると230石余、『天保郷帳』によると268石余であった。村の規模は東西10町、南北8町程であった。荒川に

河畔林

河畔林(かはんりん)とは、河川の周辺に繁茂する森林のことをいう。河辺林(川辺林、かわべりん)とも呼ばれる。小渓流に繁茂する森林は渓畔林として区別される。なお、河畔林と渓畔林を併せて水辺林という。 河川敷は出水時に水没し、そこに生育する立木は水流の妨げになることや、流木化し下流に被害を与えることから

小畔川

、タモロコが確認されており、水質階級I(きれいな水)となっている。最近ではウグイやオイカワ、カワムツ、ヌマムツ、コイ、フナ、ニゴイなどの魚が釣れる。外来種であるオオクチバスやコクチバスの生息域も拡大している。通常は悪臭を放つことは無いが、増水後は下水臭が残ることが多い。 神流川 南小畔川 上流より記載

渓畔林

。なお、渓畔林と河畔林を併せて水辺林という。湿ったレキや砂質土という劣悪な生育環境から、ヤナギやハンノキなどで小径木で構成されることが多い。一般に出水しやすい土地に生育することから、大径木になるまで成長し、他の樹種へ二次遷移することは稀である。洪水時には流出して、下流の橋梁などに詰まり出水の原因と

畔蒜郡

令制国一覧 > 東海道 > 上総国 > 畔蒜郡 畔蒜郡(あひるぐん)は、上総国にかつて存在した郡である。小櫃川の上流域にあたる。のちに望陀郡(のちの君津郡)の一部となった。 『和名抄』に存在する古代の上総の郡名である。上総の下郡に郡支庁があったとされる。 畔蒜郡が望陀郡に併合された正確な時期は不明である。

河畔砂丘

河畔砂丘(かはんさきゅう)とは、砂床河川の中・下流域の流路に沿って形成される砂丘である。海岸部ではなく内陸部に形成される。 日本のような湿潤な気候条件下で内陸部に砂丘が形成されるのは河畔砂丘のみである。 日本では木曽川、北上川、利根川の流域及び旧河道周辺にのみ存在する珍しい地形である。

湖畔 (絵画)

また、1900年(明治33年)に開催されたパリ万国博覧会に『オ・ボ・ドゥラ』(Au bord du lac、フランス語で「湖の辺にて」の意)というタイトルで『智・感・情』『秋郊』『木かげ』『寂寞』とともに出展された(次節「パリ万博への出展」で詳述)。このとき計5点のうち『智・感・情』だけが銀賞を受賞した。『オ・ボ・ドゥラ』

湖畔の宿

湖畔の宿(こはんのやど) 湖畔の宿 (曲) - 1940年発表の高峰三枝子の歌謡曲 湖畔の宿 (テレビドラマ) - 1966年放送のフジテレビのテレビドラマ このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの

岩畔豪雄

虚庵聚影~大田俊博 遺稿・追悼集~、安島博彦(発行者)、弘報舘、2007年2月 大戦間期の日本陸軍、黒沢文貴著、みすず書房、2000年2月 歴史と旅 特別増刊号(44) 帝国陸軍将軍総覧、秋田書店、1990年9月 悲運の大使 野村吉三郎、豊田穣著、講談社、1992年10月 阿片王

野村隈畔

互いの胴を結び、抱き合って千葉県市川の江戸川に身を投げて情死、11月5日に津田沼海岸で遺体が発見された。死の直前まで書かれた日記には、「一切を捨てて現実を超越す」「永遠の美と愛と心行くまで憧憬する」「永劫無限の世界に旅立つ。これ哲人の希望であり歓喜である」などの言葉が遺されていた。梅子は文学少女であ

畔柳二美

1933年(昭和8年)3月にマリー・ルイズ美容学校に通うため上京して東京生活が始まり、窪川稲子にも面識を得るようになった。しばらく付合ううちに稲子は二美の人柄に好感を持って、作家仲間の結婚相手にと考えたこともあったようだが、彼女には1935年(昭和10年)頃に知り合った東京帝国大学