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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

歌川芳室

歌川 芳室(うたがわ よしむろ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 歌川芳勝の子、一富斎と号す。作画期は幕末の頃で有卦絵などを残している。 「金性之人有卦ニ入ル」 大判錦絵 ※有卦絵、安政元年(1854年) 「新板けだ物づくし」 大判錦絵 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年

คำที่เกี่ยวข้อง

歌川芳宗

おり、師弟関係は芳宗の晩年まで継続した。晩年は娘のしま女が若菜屋島次という芸者として売り出したことから、芳宗は芸者置屋として新橋の金春街道に住み、左団扇で暮らせるようになったという。最期は誤って井戸に落ち死んだ。享年64。墓所は豊島区西巣鴨の良感寺、法名は雲上院興与芳宗居士。門人に宗政、宗久、宗成

歌川芳虎

その後、安政5年(1858年)に師の国芳より破門を言い渡される。これは国芳と不和になったからといわれるが、国芳が芳虎を破門するに当たり、「乍憚以書付奉申上候」(憚り乍ら書付を以って申上げ奉り候)と行事(町役人)に宛てて出した書状の下書きが残っている。それによれば「芳虎こと辰五郎が腹を立て、俄かに絵師を

歌川国芳

天保12年(1841年)。戯画。団扇絵。着物の柄は、師匠は鈴・小判・猫の足跡・目刺が放射線状に並び、裾から覗く裏地はスルメ。手前の弟子はふかひれ、奥は蛸の絞りと猫の好物尽くしである。 画像-19:『荷宝蔵壁のむだ書』 嘉永元年(1848年)頃 画像-20:『人かたまつて人になる』 弘化4年(1847年)頃。「人おほき人の中にも人ぞなき

歌川芳重

歌川芳重 歌川 芳重(うたがわ よししげ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 歌川国芳の門人。歌川の画姓を称し一要斎と号す。作画期は天保から安政の頃にかけてで、美人画や合巻の挿絵などを描いている。 『褄模様比翼紫』 合巻 ※墨春亭梅麿作、天保9年(1838年)刊行 「海運蚕養草」 大判錦絵3枚続 ※刊年不明

歌川芳艶

けると、保輔は負けじと水と大鷲を繰り出す。 「破奇術頼光袴垂為搦」 安政5年(1858年)4月 これも『四天王剿盗異録』の巻之八、源頼光が足柄山で熊とウワバミの戦いを見る場面がもと。この戦いは保輔の幻術による物で、この間に保輔は頼光の荷物を奪い取る。 「大江山酒呑退治」 安政5年(1858年)10月

歌川芳輝

立美術館所蔵 ※「六十四翁 一椿斎芳輝」の落款、「芳輝画印」の白文方印あり(二幅いずれも同じ)。明治4年 「衣通姫図」 絹本着色 大英博物館所蔵 「鍾馗図」 幟絵 「神宮皇后と武内宿禰」 絵馬 碓氷峠熊野神社所蔵 白石一 「一椿斎芳輝」 『浮世絵界』第4巻第2号 浮世絵同好会、1939年 ※2 - 7頁

歌川芳直

歌川国芳の門人、歌川を称し一盛斎と号す。下谷御徒町に住む。作画期は嘉永から安政の頃にかけてで、錦絵を残している。 「船有卦七富乗合」 大判錦絵 館山市立博物館所蔵 ※有卦絵、安政元年(1854年) 「清元直伝本 其小唄夢廓」 大判錦絵揃物の内 早稲田大学図書館所蔵 ※安政4年(1857年)

歌川芳豊

絵を学んでいたが、国貞のもとを出奔し国芳の門に入る。国芳はちょうど国貞が歌川豊国を名乗った時だったので、わざと芳豊の名を与えたという。つまり「豊」の字を「芳」の字の下に置いたということである。作画期は安政から慶応にかけての頃で、幕末には武者絵のほか、はしか絵や凧絵を得意とし横浜絵

歌川芳富

「国芳死絵」 大判錦絵 東京国立博物館所蔵 ※文久元年 「生写南京人之図」 大判錦絵 神奈川県立歴史博物館所蔵 ※文久元年 「徳川家十五代之将軍慶喜公謹依之慶応四辰年四月十一日卯ノ上刻西城奉還之図」 大判錦絵3枚続 早稲田大学図書館所蔵 「外国入船ノ図」 大判錦絵揃物 「寿老と福助と乙福」 大判錦絵 「愛知病院外科手術図」 肉筆 ※明治13年(1880年)

歌川芳玉

材木町の杉ノ森床屋の娘に生まれる。国芳に学び、嘉永から安政の頃にかけて美人画や双六絵を描く。後に柴田是真の門人となる。色彩に長じ、師の国芳の版下の色差しを手伝い、是真のもとでは主に扇面の版下を描いた。33、4歳のころ画界を退き剃髪し、二年ほど諸国を歩く。帰郷後間もなく没した。享年35。 『風流粋の一筋』1冊 歌謡本 ※弘化頃

歌川芳升

(うたがわ よします、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 歌川国芳の門人。歌川の画姓を称し一猿斎と号す。天保8年(1837年)刊行の合巻『敵鰹差身之業物』(通用亭徳成作)の挿絵を同門の歌川芳宗、歌川芳虎とともに描いている。 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デ

歌川芳春

歌川芳春 歌川 芳春(うたがわ よしはる、文政11年〈1828年〉 - 明治21年〈1888年〉2月5日)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。 歌川国芳の門人。本姓は生田、名は幾三郎。歌川の画姓を称し一峰斎、一梅斎、一橘斎、朝香楼と号す。 もとは旗本の子で三男として本所に生れる。父は御

歌川芳邨

「東京日々新聞 思案橋の暴徒事件」 大判錦絵3枚続 江戸東京博物館所蔵 ※同上 「東京名所之内 赤坂紀尾井坂之図」 大判錦絵3枚続 ※明治11年、「静斎芳邨」落款 「東京鉄道馬車図 浅草寺景」 「東京日々新聞 思案橋の暴徒事件」 井上和雄 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、193

歌川貞芳

『よしこの五十三駅』(よしこのごじゅうさんつぎ)1冊 ※歌謡書 『なげ扇源氏よしこ』1冊 ※弘化4年(1847年)刊行 『浪花夢』三巻5冊 ※平亭銀鶏作。人情本、天保6年(1835年)刊行。挿絵を貞広とともに描く。 「三味線を持つ芸妓立像」 大判錦絵上下2枚継 ※天保末年 「御暇乞きやうげん 奴蘭平・尾上多見蔵 悴しげ蔵・尾上和市」

歌川芳延

狸汁の店を開いたため、「田甫の狸」などとあだ名をつけられた。 以下に、芳延と狸のエピソードの一端を示す。 芳延は横浜行の陶器に絵を描いていた。狸を集めて火鉢や茶碗や、その他の器具も狸尽しであったが、当時浅草奥山には狸がいたもので、迷子の狸

歌川芳鶴

『祝言千箱玉』 合巻 ※美図垣笑顔作、天保12年(1841年)刊行 『絵巻物今様姿』 合巻 ※笑顔作、天保13年 『犬神太郎暴悪譚』 合巻 ※雪麿作、同年刊行 『正本由良湊』 合巻 ※笑顔作、嘉永3年(1850年)刊行 『もゝ太郎』 絵本 ※刊行年不明、「一声斎芳霍」の署名

歌川芳員

日本の遣米使節団の挿絵を引用し、日本人を外国人に置き換えて描いている、この様に芳員等の画家達は外国からくる珍しいものは何でも題材にした。 「異国人酒宴遊楽之図」 錦絵 フリーア美術館内アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵 ※この錦絵は、フランクレズリー絵入新聞の中で「遣米使節団歓迎レセプション」

歌川芳盛

歌川国芳の門人。姓は三木または田口、名は作蔵。画姓として歌川を称し、一光斎、光斎、酒盛(さかもり)、さくら坊、桜ん坊などと号した。はじめ下谷広小路、次いで池ノ端茅町に住んだが、後に横浜根岸に移住している。 幼少時より国芳の門に入り、国芳の画風によく倣った武者絵、

歌川芳綱

「江戸火消勢揃之図」 大判錦絵3枚続 ※嘉永5年(1852年) 「江戸町並火消し之図」 大判錦絵3枚続 江戸東京博物館所蔵 ※嘉永5年 「於宿下り遊参双六」 大判錦絵 江戸東京博物館所蔵 ※嘉永頃 「年中行事一覧」 大判錦絵2枚続 ※安政5年(1858年)、一燈斎芳綱の落款