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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

津上忠

1985 『炎城秘録 津上忠戯曲選』影書房 1990 『幕の内外で 芝居噺』新日本出版社 1992 『のべつ幕なし』新日本出版社 1996 『不戦病状録抄 津上忠作品選集 続・のべつ幕なし』本の泉社 2008 『作家談義 評論・エッセイ集』影書房 2010 『評伝演出家土方与志』新日本出版社 2014

คำที่เกี่ยวข้อง

上津

上津(うわづ、かみつ、かみづ、こうづ、じょうづ) 群馬県利根郡みなかみ町上津(かみづ) 富山県南砺市上津(じょうづ) 福井県大飯郡高浜町上津(うわづ) 兵庫県神戸市北区長尾町上津(こうづ) 福岡県久留米市上津(かみつ) 福岡県久留米市上津町(かみつまち) 伊賀上津駅 上津村 中津 下津

島津忠親

豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け

島津忠昌

こうした中で文明8年(1476年)1月頃より、薩州家の島津国久をはじめ、豊州家の島津季久らが忠昌に叛旗を翻し、相良為続や伊東祐堯、菱刈氏・渋谷氏一族もこれに呼応し、「国中騒乱」といわれるほどの事態となる。3月に一旦停戦したものの、相州家の島津友久も叛旗を翻したために戦いが再開され、文明9年(1477年)に反守護方による鹿児島侵攻が

島津忠栄

まま討ち死にし、慶長9年(1604年)にその跡目を継ぐように命じられた豊久実弟の忠仍も病身を理由に相続を辞退したことから、忠栄が忠仍の娘婿、同時に島津豊久の養子扱いとして永吉島津家を相続することとなった。 寛永元年(1624年)に早世した。享年28。跡目は当主・家久の9男である久雄が養子として継いだ。

島津忠国

「嘉吉・文安の島津氏内訌」(原題:「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」『史学研究』235号(2001年)) 「文安元年日向国南部国人一揆の意義」(原題:「文安元年日向国南部国人一揆の意義-守護島津氏・庄内国人による山東進出とその挫折-」『都城市史編さんだより 都城地域史研究』9号(2003年))

島津忠済

- 銀杯一個 6月22日 - 木杯一組 1889年(明治22年)6月26日 - 従四位 1891年(明治24年) 6月16日 - 正四位 12月14日 - 木杯一組 1893年(明治26年) 1月20日 - 木杯一組 10月2日 - 木杯一個 10月18日 - 木杯一組 1895年(明治28年)6月29日

島津忠廉

ただかど)は、室町時代中期の薩摩国の武将。島津豊州家第2代当主。島津季久の長男。 長禄3年(1453年)、父季久とともに蒲生氏の居城・蒲生城を攻撃し、蒲生の地を支配下に置く。文明5年(1473年)、伊作家の島津久逸が反乱を起こすと、当初は中立を保っていたが、突如として島津宗家11代当主の島津忠昌に叛旗を翻す。しかし薩州家の

島津忠将

不自由であることと久元の息子が幼いことにつけこみ、肝付兼続が廻城を奪った。これに対し、主君の貴久は忠将と長男の島津義久を向かわせた。忠将は竹原山に陣を構えていたが、突出した味方の町田久倍を救おうとしたところ、兼続の攻撃を受け戦死、清水の楞厳寺に葬られた。弟を討たれた貴久は自ら軍を率い出陣し兼続を撃退、廻城を奪還している。

島津忠救

1794年)の書状が現存しており、周防を名乗った父忠紀か忠救が琉球王と交流を持っていたことがわかる。 2007年に鹿児島大学付属図書館が所蔵する玉里文庫所蔵の誠忠武鑑の裏打ち紙から、忠救に仕えた奥祐筆の日記が発見された。 ^ 現在の鹿児島県姶良市 『越前(重富)島津家の歴史』(姶良町歴史民俗資料館 2004年)

島津忠徹

島津重豪の養女、島津久徴の娘(母) 正室 随姫、祀姫、随真院 ー 島津斉宣の娘 子女 島津忠寛(三男)生母は随真院(正室) 宮原義敬(四男) 島津忠施 小川久抹 勵 ー 伊達宗孝正室 美子 ー 遠山友禄正室 艶 ー 京極高厚正室 ^ “大名の死 秘した使命感 草津宿本陣(時の回廊)”. 日本経済新聞. 2019年12月9日閲覧。

島津忠卿

えられた。和泉家は、島津家第4代忠宗の次男・忠氏に始まる家で、応永24年(1417年)川辺城の戦いで5代当主直久が戦死して以来長らく絶えていた。 宝暦4年(1754年)11月13日、死去。享年13。家督は、実弟・安之助(忠温)が、養子入り

島津忠公

天保7年(1836年)、又次郎が忠公の次女お千百と結婚する。天保10年(1839年)11月、家督を忠教に譲り、隠居して楽水と号す。当時重富家の財政は破綻状態で、忠教は藩主斉興から財政の再建を命じられた。 1872年(明治5年)8月13日死去。享年74。 忠公の次女お千百

島津忠綱

嗣に高麗山のヤマガラを献じている。寛元3年(1245年)8月16日の鶴岡馬場の儀にて流鏑馬の的立を務め、また正嘉元年(1257年)6月1日旬鞠会では見証(審判)に列していることから、文武に優れた人物であったことが窺われる。 忠綱の没年には諸説ある。『播州島津家略歴』は寛元2年(1244年)2月7日死

島津忠高

3代藩主・島津久雄の長男として江戸にて誕生。幼名は又四郎。 寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。寛文6年(1666年)、幕府に反抗的であった日蓮宗不受不施派の日講が佐土原に配流されるとその講義を受け、やがて帰依した。藩政においては藩士の格式や知行の制定など、人事面の確立に尽力している。

島津忠宗

島津 忠宗(しまづ ただむね)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将。島津氏の第4代当主。鎌倉幕府御家人。第3代当主・島津久経の嫡男。母は相馬胤綱の娘。 島津久経の子として生まれ、元服して忠宗と名乗る(年代的に考えて、「宗」の字は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より下賜されたものと考えられる)。元寇時

島津忠隣

ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津家の家臣。日置島津家2代当主。 島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久(義久の弟)の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。 天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる。しかし若年であり、また初陣であったことか

島津忠麿

島津随子(久範先妻) 久範を婿に取るが、子を残さぬまま、1921年に21歳で早世。 二女 九条文子(九条道秀夫人) 1942年に41歳で死没。 道秀とその後妻・成子(土山尊弘次女)の間で、文子の死没以前に1男2女が生まれているため、道秀と文子は離婚していると推測される。 三女 島津秀子(久範後妻)

島津忠恒

を連れて江戸におもむいた機会に側室を囲うことに関して幕府の言質を得ようとして成功している。慶長16年(1611年)に義久が死去すると、すぐに亀寿を国分城に別居させ、側室を8人抱えた。それら側室との間に39歳から死ぬまでの間に33人もの子女を儲け、それらの子を

島津忠喬

今和泉島津家第9代当主。父は島津重豪の子で「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)で重豪の仮養子にして従兄弟の島津久徴の子。(重年仮養子にして知覧島津家島津久峰の嫡孫)の島津忠厚。兄に加治木島津家当主久徳、弟に民之進(寛政13年没早世)。子に万千代(天保5年11月10日11歳で没)、卿静(万吉、安政4年11月10