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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

源師房

8月22日:右大臣。8月25日:右大将如元 延久4年(1072年) 6月13日:聴輦車 延久6年(1074年) 正月28日:従一位 承保2年(1075年) 11月7日:勅聴乗牛車出入閤門。12月15日:兼左近衛大将皇太子傅(関白左大臣辞替、春宮・善仁親王) 承保3年(1076年) 12月29日:宣旨、諸節会不経行列自被可参上者 承保4年(1077年)

คำที่เกี่ยวข้อง

源顕房

男子:源顕雅(1074-1136) 男子:源信雅 (1079-1135) 男子:覚樹(1079-1139) - 東大寺権少僧都 妻:藤原惟子 - 因幡守藤原惟綱娘 男子:源雅兼(1079-1143) 妻:石清水八幡宮別当清円娘 男子:清覚(1083-1119) - 延暦寺法眼 男子:源雅光(1089-1127)

源国房

康和元年(1099年)、従五位上に叙された(『本朝世紀』)。嘉承元年(1106年)には、延暦寺の僧仁誉と共謀し尾張国大成荘に濫入している。本拠地鶉郷は長子・光国に継承された。 父:源頼国 母:不詳 妻:木工大夫正中(氏不詳)の娘 男子:源光国(1063-1148) 妻:不詳 男子:源光俊(

源頼房

にあった興福寺の大衆が国司である父・頼親の邸宅に攻め寄せ、頼房がこれに矢で応戦して多数の僧を殺害したことから、激昂した興福寺の訴えにより翌年(1050年)正月、頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に配流されることとなった(『扶桑略記』)。 康平5年(1063年)12月、赦免されて、本位に復する

源俊房

永久元年(1113年)輔仁親王の護持僧を務めた子息の仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされ、伊豆国への流罪となる。一方で、俊房と他の子息は暗殺計画には無関係で処罰すべきでないとの参議・藤原為房の主張により、俊房は連座を逃れるが政治的権力を失って失脚し、子息達とともに謹慎を余儀なくされる。翌永久2年(11

源経房

1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において薨去。享年55。 経房の死後、筑前守平理義が「帥の納所等」を検封し、それを管理していた経房の妻に対し印鑰を引き渡すように責め立てる事件が発生し、平維衡が派遣された。

源師俊

女子:藤原頼長室 女子:源雅国室 ^ 『勅撰作者部類』 ^ 「詩などよくつくり給ひ」(『今鏡』村上の源氏,堀河の流れ)。「此年、基俊、師俊両入道入滅了、天之亡文哀哉、言詩之席已懶」(『台記』康治元年2月5日条)。との記載があり、当時『新撰朗詠集』を撰集した藤原基俊と並んで漢詩文の分野で評価を受けていたことが窺われる。

源師時

官位は正三位権中納言兼太皇太后宮権大夫。 詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に20首が入集、また兄師頼と共に『堀河百首』の詠み手の一人である。漢詩においても、師頼ほどではなかったが、師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」と賞賛されている。父俊房を継いで有職故実に通じ、源有仁等にも教導した。

源師教

勅撰歌人として『千載和歌集』1首の和歌作品が入集している。徳大寺実定の歌集『林下集』の中に、「師教朝臣家にて、おなじ心を」、「師教君家にて、水鳥」などの詞書が記されていることから、師教が自邸でしばしば歌会を開催していた様子が窺われる。 時期不詳:正五位下。侍従 康治2年(1143年)

源師忠

皇)すると、師忠は蔵人頭に補せられる。承保元年(1074年)参議に任ぜられ公卿に列すが、引き続き近衛中将を兼帯し、この間の承保2年(1075年)従三位次いで正三位、承保3年(1076年)従二位と昇叙された。 その後、承暦4年(1080年)権中納言、永保元年(1081年)正二位、応徳3年(1086年)

源師頼

が原因であるが、以下の逸話も残っている。 師頼が若い頃に「採桑老」という舞をする夢を見たが、物事に詳しくない人が「宰相(参議)で久しくいらっしゃる」と興ざめな夢合わせをしてしまった。師頼がこれに怒ったこともあり、夢合わせした者は早くに亡くなってしまい、師頼も長く宰相の地位に留まることになってしまったという。

源師隆

亮に遷任させられた。寛治7年(1093年)2月に従四位上、3月に正四位下と続けて陞叙。寛治8年(1094年)左馬頭に任ぜられ、同年5月の五巻の日には捧物を持って参会しているのが確認できる。 嘉保3年(1096年)の永長の大田楽の際には小鼓を演じたという。11月には令子内親王の相嘗祭神楽が行われた際、

菱川師房

を残す。父師宣より絵を学んだと見られ、画風は師宣風に忠実だが、それよりも巧緻で繊細であると評されている。枕絵も描いたといわれるが確認されていない。 元禄7年(1694年)に師宣が死してのち菱川派は衰滅し、師房もついには画業を

師尾源蔵

第1回関東大学専門学校射撃大会を契機として、1925年(大正14年)に学生射撃連盟、1937年(昭和12年)に大日本射撃協会、1949年(昭和24年)に日本射撃協会、1953年(昭和28年)に日本ライフル射撃協会が設立された。 全国戦没学徒顕彰会会長として戦没学徒の英霊を祭る全国運動を進めた。

源師光 (村上源氏)

で官位は正五位下・右京権大夫に留まる。侍従を務め、小野宮侍従とも呼ばれた。50歳頃出家して生蓮と号した。 和歌に優れるが、九条兼実には「和歌の外他芸無し」と評されている。 勅撰歌人として『千載和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に26首が採録されている。家集に『師光集』がある。また、私撰集『花月集』があったとされるが、散逸して現存しない。

房房

ふさのように多く集まって垂れ下がっているさま。 「~(と)した髪」「~と絡(マト)つた緋の花纐纈(ハナシボリ)の帯揚は/多情多恨(紅葉)」

蒔絵師源三郎

ているものもあるが、署名はなく定かではない。『退私録』(新井白石著)にある記述から奈良の人といわれてきたが、『退私録』に記されたのは松屋久重(通称塗師屋源三郎)という別人であること、『人倫訓蒙図彙』を出版したのが京都の書肆であることから、「蒔絵師源三郎」も京都の人物だった可能性が指摘されている。『

房

(1)多くの糸をたばね, その先端を散らして垂らしたもの。 「紐(ヒモ)の~」 (2)花や実などの, 多く集まって, 枝から垂れ下がっているもの。 「ブドウの~」 (3)ミカンなどの果実の中身の袋の一つ一つ。

房

(1)小部屋。 つぼね。 「草の御蓆も此の~にこそまうけ侍るべけれ/源氏(若紫)」 (2)僧の住んでいる所。 また, 僧。 「或る~には経典を読誦する比丘有り/今昔 4」「すぐれたる御~ぞかし/大鏡(昔物語)」 (3)二十八宿の一。 東方の星宿。 蠍座(サソリザ)の前半部に当たる。 房宿。 そいぼし。

源

みなもと 「源」で始まるページの一覧(「源」姓の人物が非常に多数表示される。ただし姓でないものも混じっている。) 源伴存 - 江戸後期の紀州藩の博物学者 漢姓 源賀 池田源 (はじめ) - 明治時代の子爵 加藤源 (げん、1940 - ) - 神奈川県出身の都市計画家 魏源 - 清国の思想家 源 (俳優)