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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

畿内

[きない]
〔王城の周辺の地の意〕
律令国家が定めた行政区域。 山背(山城)・大和・河内・摂津の四か国をいい, 四畿内と呼ばれた。 のち, 河内から和泉が分立し五畿内となる。 律令国家を形成した諸氏族の居住地域を行政上特別扱いしたもの。

คำที่เกี่ยวข้อง

四畿内

畿内の四か国。 大和・河内・山城・摂津をいう。 757年, 河内国から和泉国が分かれ, 以後, 五畿内となる。

畿内丸

昭和13年)7月からは終点をニューヨークからヨーロッパに変更した欧州航路にも就航。ようやく隊伍を整えた日本郵船の新鋭船と提携して覇を競うこととなった。しかし、第二次世界大戦勃発と日米関係の悪化により航路は縮小を余儀なくされ、1941年(昭和16年)3月15日の神戸発ニューヨーク行が最後の商業航海となった。

五畿内志

『五畿内志』(ごきないし)、正式には『日本輿地通志畿内部』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸時代の享保年間に編纂された畿内5か国の地誌、すなわち『河内志』『和泉志』『摂津志』『山城志』『大和志』を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。 『五畿内

畿内七道地震

壬子(21日)、遣使於京及畿内、問百姓所疾苦。詔曰、比日、天地之災、有異於常。思、朕撫育之化、於汝百姓有所闕失歟。今故、発遣使者、問其疾苦。宜知朕意焉。諸道節度使事既訖。於是、令国司主典已上掌知其事。 秋七月 辛未(12日)、詔曰、朕、撫育黎元、稍歴年歳。風化尚擁、囹圄未空。通旦忘寐、憂労在茲。頃者、天頻見異、地数震動。良由朕訓導不明、

五畿

「五畿内」の略。 「~七道」

近畿

〔畿(都)に近い国々の意〕 「近畿地方」の略。

程畿

を募集した。ところが、劉璋に讒訴する者がいたため、劉璋は龐羲を疑うようになった。龐羲は程畿の子の程郁を配下としており、程郁を程畿の下に派遣して救援を求めた。しかし、程畿は「異心を抱いていないのなら、誠意を尽くすべきです」と言い、これを拒否した。また、程郁に対して「私は州から恩を

杜畿

を討伐しようとした。しかし杜畿は「河東には3万戸の民がおります。大軍を赴かせてしまったら、范先らに脅迫され止むを得ず服従していた者までもが、本当の敵となってしまいます。衛固は、太守の交代に表向き抗議しているだけに過ぎませぬから、討伐の前に奴らの懐に入り、有利な手立てを

王畿

広めることに尽力した。また、師の王守仁の無善無悪の説を発展させた四無説と呼ばれる独自の説を展開し、李贄(李卓吾)らに影響を及ぼすこととなった。李贄は王畿と羅汝芳をの2人を共に師と仰ぎ、「二先生の書物を読まない年はなく、二先生の説を語らない時はない」(『焚書』巻三、羅近渓先生告文)と述べ敬重している。

京畿

京畿(けいき)は、漢字文化圏で京師(みやこ)および京師周辺の地域のこと。 中国大陸における京畿 唐代の行政区分→京畿 (唐) 宋代の行政区分→京畿路 日本における京畿 畿内の別称→畿内 近畿の別称→近畿地方 朝鮮半島における京畿(キョンギ) 大韓民国の行政区分→京畿道 李氏朝鮮期の行政区分→京畿道 (朝鮮八道)

邪馬台国畿内説

内説(やまたいこくきないせつ)を概説する。 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説

畿内丸型貨物船

料消費率を劇的に改善した2気筒機関である。その純国産のMS型機関の第1号機から第4号機の搭載先として選ばれたのが南海丸型貨物船の2隻であった。MS型機関はその後大いに採用され、あるぜんちな丸級貨客船に11気筒タイプのものが、日本郵船の三池丸級貨客船に10気筒タイプのものが搭載されたが、11気筒タイ

北近畿

葉圏と大阪弁圏に二分する考え方もある(後述)。しかし、アスペクト(継続と完了の区別の有無)の点では神戸と京阪の間に著しい違いがある。 各方言の詳細は各項目を個別に、周辺の他方言との比較については日本語の方言の比較表を参照。 京言葉圏

京畿道

市の光陵と洪陵、裕陵などがあり、城郭としては世界遺産に登録された水原市の華城や南漢山城、幸州山城、江華山城などがある。龍仁市の韓国民俗村では民俗文化を、坡州市の板門店では韓国の分断の悲しみが実感できる。 水原・京畿道文化の殿堂や龍仁・京畿道国楽堂では多様な公演が行われており、龍仁・京畿道博物館、白南

京畿 (唐)

618年(武徳元年)、唐朝が成立すると関隴、岷蜀、河東を中央直轄地区とし、15州総管府、33直属州を管轄したのが前身である。 直轄区域は627年(貞観元年)、管轄区域は関内道、河北道、河南道、隴右道に分割されて廃止されたが、716年(開元4年)、京畿の州県は中央の直接管理地区となり、733年(開元21年)には京畿が設置された。

畿内・近国の戦国時代

畿内・近国の戦国時代(きない・きんごくのせんごくじだい)では、畿内とその近国、おおよそ現在の近畿地方の室町時代後期、戦国時代について記す。 戦国時代の区分については諸説あるが、この項では狭義の戦国時代の始まりとされる明応の政変が起きた明応2年(1493年)から、戦国時代の下限とされる天正元年(1573年)までを戦国時代として扱う。

内内

※一※ (名) (1)家庭の中。 「~のようす」 (2)表立たないこと。 内輪(ウチワ)。 「~でお祝いをすます」 ※二※ (副) ないないで。 ひそかに。 「建保の比, ~百首御歌よみ給へりしを/増鏡(おどろの下)」

内内

〔「うちうち」の漢字表記「内内」を音読みした語〕 ※一※ (名) (1)表向きではないこと。 外に現れ出ないこと。 うちわ。 「~で処分する」「~の話」「~の処は其女を御新造として/怪談牡丹灯籠(円朝)」 (2)心の中。 「~では喜んでいる」 ※二※ (副) (1)ひそかに。 内密に。 うちわに。 「~意向を打診する」 (2)心中ひそかに思うさま。 「~案じておりました」「諦(アキラ)めても, …~自分の不運を泣きますは/五重塔(露伴)」

ポンポン山 (近畿)

異説もあり、本山寺(ほんざんじ)の転訛説や、「この周辺の山ではポーンとひとつ高い山だから」という現地の古老の話を吉田金彦は紹介している。吉田は本山寺転訛説、足音ポンポン説をいずれも否定しており、先斗町と同じくポルトガル語のポン(一番)が根拠ではないかとも考えている(吉田著『京都の地名を