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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

皇嗣

[こうし]
皇位を継承するよう定められた者。

คำที่เกี่ยวข้อง

立皇嗣の礼

立皇嗣の礼(りっこうしのれい)、又は立皇嗣礼(りっこうしれい)は、日本の第126代今上天皇が秋篠宮文仁親王の立皇嗣を国の内外に宣明した一連の国事行為で、皇室儀礼。 従来は、皇嗣(皇位継承順位第1位にある者)が「皇太子(今上天皇の皇男子)」であったため「立太子の礼(りったいしのれい

宮内庁皇嗣職

皇嗣職(こうししょく)は、宮内庁の内部部局のひとつ。皇嗣(秋篠宮文仁親王)・皇嗣妃(同妃紀子)およびその未婚の王子女(秋篠宮家)の家政機関。 天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、2019年(令和元年)5月1日に東宮職(皇太子の家政機関)に代わって新設された。 宮内庁法附則第3条 

世嗣

諸侯のあとつぎ。

継嗣

あととり。 あとつぎ。 よつぎ。

後嗣

家系をうけつぐ人。 あとつぎ。 よつぎ。

世嗣

(1)家督を相続すること。 また, その人。 (2)統治者としての天皇の位を継ぐこと。 (3)歴代の天皇の事蹟を代々語り伝えること。 また, 伝える人。 「~の翁の物語/徒然 6」 (4)歴代の天皇の事蹟を仮名で書き記した歴史書。 「栄花物語」「大鏡」など。

令嗣

他人の相続人を敬っていう語。 お世継ぎ。

嫡嗣

⇒ ちゃくし(嫡嗣)

嗣子

家のあとを継ぐ子。 あとつぎ。

嫡嗣

家を継ぐべき, 本妻の子。 世継ぎ。 跡取り。 てきし。

嗣徳

嗣徳(しとく、トゥドゥク・Tự Ðức)は、ベトナム阮朝の嗣徳帝、協和帝の治世で使用された元号。1848年 - 1883年。 プロジェクト 紀年法 元号一覧 (ベトナム)

法嗣

法嗣(ほうし、はっす)は、師匠の教えを受け継いだ人のこと。 師資相承(ししそうしょう)により、師から仏の法と印可を継承し、またその法を後の弟子に伝える人。仏法上の弟子。主に禅宗や密教で用いられる用語。禅宗では「はつす」あるいは「はっす」と読む。また「ほっし」と読む場合もある。 血脈相承 表示 編集

嗣君

嗣君(しくん、? - 前283年)は、衛の第42代君主。平侯の子。侯爵から君に爵号が下がった。 平侯の子として生まれる。 平侯8年(前325年)、平侯が薨去したため、子の嗣君(この時は侯爵)が立って衛君となった。 嗣君5年(前320年)、衛はさらに爵号を下げて君国となり、濮陽だけを領有することとなった。

王嗣

王 嗣(おう し、生没年不詳)は、中国三国時代の政治家・武将。蜀漢に仕えた。字は承宗。益州犍為郡資中県(現在の資陽市)の人。 延熙年間(238年-257年)、功業・徳行が顕著ということで孝廉に推挙された。次第に昇進して西安囲督・汶山太守となり、安遠将軍の位を加えられた。領内の羌族に恩愛と信義をもっ

楊嗣昌

ることとなった。崇禎14年(1641年)正月、李自成が洛陽を占領し、崇禎帝の叔父の福王朱常洵が殺害された。2月、張献忠が襄陽を攻撃し、襄王朱翊銘も殺害された。大勢の官員らが過ちを楊嗣昌一人の責任に帰し、奔命に疲れた楊嗣昌は過度のストレスで自殺した。 『崇禎長編』 『明史』列伝第一百四十 『明季北略』

李嗣源

また代州出身の異民族として漢民族に君臨することを悩み、夜な夜な香を炊いて天を祭った。 この時、李嗣源は 「私は異民族出身なので天下を整えることが出来ません。天よ!願わくば早く聖人を生み、天下の民を助けて下さい!」 と漢民族の天子の生誕を祈ったといわれる。 その李嗣源の人柄と謙虚さゆえに後唐の国内は安定して、明宗(

王忠嗣

王忠嗣は若い頃は勇敢であったが、節度使になってからは辺境の安寧に心がけ、「平和の時勢の将は兵を慰撫するだけでよく、中国の力を疲れさえ手柄をたてるのを求めない」と語り、ただ、兵馬の訓練を行っていた。また、百五十斤の愛用の弓を袋に入れ、使わないことを示していた。 しかし、軍中では、日夜戦いに思いを馳せ、多くの諜報を

伴弥嗣

歩射に非常に優れ、若い頃より鷹犬を愛好した。憎しみの心が強く、人を射ることも憚らなかった。晩年は心構えを改め、暴慢との評判は聞こえなくなったという。 『日本後紀』による。 延暦19年(800年) 日付不詳:従五位下。大宰少弐 大同3年(808年) 8月22日:中務少輔

譚嗣同

1898年9月28日(光緒24年8月13日))は、清朝末の改革主義者、民族主義者、哲学者。戊戌変法に参加したが、戊戌政変に遭遇して捕らえられ、刑場の露と消えた。 字は「復生」。号には、「壮飛」、「華相衆生」、「東海褰冥氏」、「通眉生」、「寥天一閣主」などがある。湖南省長沙府瀏陽県の人。父は湖北巡撫という地方の