Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Todaii Japanese
Switch language – current: th
Logo Japanese
[email protected]
(+84) 865 924 966
315 Truong Chinh, Ha Noi
www.todaiinews.com
DMCA.com Protection Status

เกี่ยวกับ Todaii Japanese

เรื่องราวแบรนด์คำถามที่พบบ่อยคู่มือผู้ใช้ข้อกำหนดและนโยบายข้อมูลการคืนเงิน

โซเชียลเนตเวิร์ค

Logo facebookLogo instagram

เวอร์ชันแอป

AppstoreGoogle play

แอปอื่น

Todaii German
Todaii Super
Todaii English
Todaii Chinese
Todaii Korean
DMCA.com Protection Status

ลิขสิทธิ์เป็นของบริษัท eUp Technology JSC

Copyright@2026

พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

祇摩尼師今

この項目に含まれる文字「祇」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 「祇」の文字は公式の表記「」と異なる可能性があります。 祇摩尼師今(ぎま にしきん、生年不詳 - 134年8月)は、新羅の第6代の王(在位:112年 - 134年)であり、姓は朴。先代の婆娑尼師今

คำที่เกี่ยวข้อง

摩尼

摩尼(まに) 如意宝珠(チンターマニ) マニ (預言者) - マニ教の開祖 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

奈勿尼師今

率いて新羅へ投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答えたところ、百済は何も言ってこなくなったという。

婆娑尼師今

寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいわれる。 ほかにも蔚珍鳳坪碑は、法興王11年(524年)の建立とされるが、この碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記

奈解尼師今

た。209年には浦上の八国が連合して伽耶を攻めようとした折には、伽耶の王子が救援を求めてきたことに対し、昔于老と昔利音とを派遣してこれを救わせた。これを受けて212年には伽耶の王子が人質として新羅に送られてきた。 内政面では210年と226年の2回、長期の日照りに見舞われた

味鄒尼師今

ある人が竹長陵(味鄒尼師今の陵墓)に竹の葉が数万枚も積み重なっているのを見て、これは味鄒尼師今が幻術による兵を用いて戦を援けてくれたのだ、と考えた。 『三国史記』巻32・祭祀志によれば、第36代の恵恭王の時代に五廟を定めたとあるが、そこには金氏の始祖として味鄒王(尼師今)を位置づけ、三国統一の偉業を

沾解尼師今

^ 他に烽山の候補として、『新増東国輿地勝覧』には慶尚南道昌寧郡霊山面に烽山烽燧の名称が見える。 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5 『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館

脱解尼師今

辺りとなる)。王妃は妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げ

伐休尼師今

伐休尼師今(ばっきゅう にしきん、生年不詳 - 196年4月)は、新羅の第9代の王(在位:184年 - 196年)であり、姓は昔。父は第4代の脱解尼師今の子の仇鄒角干、母は金氏の只珍内礼夫人。 184年3月に先代の阿達羅尼師今が死去したときに嗣子がいなかったため、国人に推挙されて即位した。185年

儒礼尼師今

儒礼尼師今(じゅれい にしきん、生年不詳 - 298年)は、新羅の第14代の王(在位:284年 - 298年)であり、姓は昔氏。第11代の助賁尼師今の長男で、母は朴氏の奈音葛文王の娘であり、ある夜に星の光が口の中に入り身ごもったといい、誕生した日の夕方に芳香が立ち込めたという。『三国遺事』王暦では世理智王とも記される。

助賁尼師今

娘の阿尓兮夫人。『三国史記』新羅本紀・助賁尼師今紀の分注には諸賁とも記される。先代の奈解尼師今が230年3月に死去したときに、その遺言に従って王位についた。 奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。助賁尼師自身も232年4月に倭人が首都金城に攻め入った時には出陣して倭

逸聖尼師今

国内では、144年2月に農業が政の根本であるとして水利の修繕とともに農地開拓を勧める布令を発し、あわせて民間での金銀珠玉の使用を禁止するという倹約の布令を発した。また、147年7月には智勇兼備の優れた人物を推挙することを群臣に命じた。 154年2月、在位21年にして死去した。埋葬地は不明。

儒理尼師今

歌(とそつか)を作ったといい、これが新羅での初の歌楽とされる。また、六部の改組を行った後に、六部を二つに分けてそれぞれに王女を配して二組に別け、7月16日から8月15日までの間、二組が互いに麻を紡ぎ、どちらがたくさん作れるかの競争をさせたという。負けたほうが勝ったほうに食べ物を捧げ、皆で歌

訖解尼師今

訖解尼師今(きっかい にしきん、生年不詳 - 356年)は、新羅の第16代の王(在位:310年 - 356年)であり、姓は昔氏。第10代奈解尼師今の孫であり、父は昔于老、母は第11代助賁尼師今の娘の命元夫人。先代の基臨尼師今が310年6月に薨去したときに嗣子がなかったため、群臣が訖解を推挙して王につ

実聖尼師今

に薨去したとき、太子を差し置いて国人が推挙して実聖を王位につけたとされる。最期は訥祇麻立干の殺害を依頼した高句麗人に逆に殺害されたとも、高句麗人から害意を聞いた訥祇が殺害したとも。 392年1月に高句麗から新羅に対して使者が送られたとき、高句麗の勢力の強いことを恐れた新羅・奈勿尼師今は、実聖を人質と

基臨尼師今

基臨尼師今(きりん にしきん、生年不詳 - 310年)は、新羅の第15代の王(在位:298年 - 310年)であり、姓は昔氏。第11代の助賁尼師今の孫であり、父は伊飡(2等官)の昔乞淑、母の名は伝わらない。『三国史記』新羅本紀・基臨尼師今紀の分注及び『三国遺事』王暦では基立(尼師今)とも記される。

阿達羅尼師今

阿達羅尼師今(あだつら にしきん、生年不詳 - 184年3月)は、新羅の第8代の王(在位:154年 - 184年)であり、先代の逸聖尼師今の長男。姓は朴。母は朴氏の支所礼王の娘の阿礼夫人、王妃は第6代祇摩尼師今の娘の内礼夫人。 154年2月に先王が死去し、王位に就いた。北方の靺鞨(及びその背後の高

摩尼山

摩尼山(まにさん) 摩尼山 (和歌山県) – 和歌山県伊都郡高野町の高野山にある標高1004mの山。 摩尼山 (鳥取県) – 鳥取県鳥取市にある標高357mの山。 島根県隠岐郡隠岐の島町の最高峰、大満寺山の別名。標高608m。 摩尼山 (大韓民国)(朝鮮語: 마니산、摩尼山) – 大韓民国・仁川広域市の江華島にある山。

摩尼寺

摩尼寺(まにじ、まにでら)は鳥取県鳥取市にある天台宗安楽律法流の寺。山号は喜見山(きけんざん)。 古来より信仰の対象として崇められてきた摩尼山の山頂付近に開創された古刹であり、山頂の立岩は帝釈天降臨の霊地とされている。寺に伝わる『摩尼寺帝釈天王縁起』(弘化3年・1846年筆写)によれば、平安時代の

祇摩王陵

慶尚北道慶州市拝洞(ハングル: 배동〈ペドン〉)にある新羅第6代王(尼師今)祇摩(ぎま〈チマ、キマ〉、在位112-134年)の陵とされる墳墓である。 1971年4月28日、大韓民国指定史跡第221号に指定された後、2011年07月28日に現在の慶州祇摩王陵(ハングル: 경주