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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

耶律頗的

州知州に転じた。任期を終えて易州を去ることとなったが、部民が留任を求めたため、再任を許された。 咸雍8年(1072年)、彰国軍節度使に転じた。道宗が大牢古山で狩猟すると、頗的は行宮で道宗に拝謁した。道宗が辺境の事情を問い質すと、頗的は「応州の南境から天池にいたるまで、みな我が耕作放牧の地でした。清寧

คำที่เกี่ยวข้อง

耶律儼

。もとの姓は李。南京析津府の人。正史『遼史』のもととなる『皇朝実録』70巻を撰した。遼の宰相の耶律処温は甥にあたる。 耶律仲禧の子として生まれた。身仕舞いが秀麗で、学問を好み、詩名で知られた。咸雍年間、進士に及第した。著作佐郎を代行し、中書令史に任じられた。太康初年、都部署判官・将作少監をつとめた。

耶律氏

真族による強固な監視の下に置いた。これに対して不満を抱いた遼の宗室の末裔の耶律留哥は、1212年に隆安(現在の吉林省農安県)および韓州(現在の吉林省梨樹県)一帯で叛乱を起こし、同族の耶律耶的の軍と合流して数カ月で十数万の勢力に成長させた上、チンギス・カンの庇護を受けて金朝より自立した。金朝は完顔胡沙

耶律良

編纂するよう奏上して、完成した詩文集を『清寧集』といった。道宗は耶律良の詩を集めて『慶会集』を編纂させ、道宗みずからが序文をつけた。ほどなく耶律良は敦睦宮使となり、皇太后宮の諸局の事務を監督した。 清寧9年(1063年)7月、耶律良は耶律重元が子の耶律涅魯古とともに反乱を計画していることを聞きつける

耶律淳

西省大同市)の陰山に逃亡してしまった。そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない涅里を擁立し、さらに李処温の子の李奭が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里は成り行きで即位させられた。また耶律大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。涅里の国は後世では北遼と

耶律吼

吼は北院大王耶律洼と会合して「天子の位は1日の空位もあってはなりませんが、もし皇太后と相談すれば、間違いなく李胡を立てようとします。李胡は暴戻残忍な人物で、民をなつかせることができませんし、必ずや人望のある者を排斥しようとするでしょう。ならば永康王を立てる

耶律輝

授けられた宋軍によって陣が破られると乱軍の中で兀顔光は討ち取られてしまい、耶律輝自身は首都燕京へ逃げ戻る破目となる。 もはや兵力も策も尽きた耶律輝は投降を決意する事になるが、右丞相の楮堅の献策に従い蔡京、童貫、高俅、楊戩ら四姦に賄賂を贈り彼らに執り成してもらうことで宋との和睦を成立させる。これによっ

耶律濬

廃して庶人に落とした。宮殿から出されるにあたって、耶律濬は「我何の罪あってここに至らん」と言った。蕭十三は車に登って叱咤し、衛士に車の扉を閉めさせた。耶律濬は上京に身柄を移されると、円塀の中に幽閉された。11月、耶律乙辛は蕭達魯古や蕭撒

耶律鋳

年、遷平章軍国重事。十三年、詔監修国史。朝廷有大事、必咨訪焉」 ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝,「十九年、復拝中書左丞相。二十年冬十月、坐不納職印・妄奏東平人聚謀為逆・間諜幕僚・及党罪囚阿里沙、遂罷免、仍没其家貲之半、徙居山後。二十二年卒、年六十五」 ^ 『元史』巻146列伝33耶律鋳伝

偏頗

〔「へんば」とも〕 考え方や立場などが一方にかたよっていること。 不公平なこと。 また, そのさま。 「何方(ドチラ)を贔負(ヒイキ)するなんて, ~な考は有(モ)つてませんわ/魔風恋風(天外)」

廉頗

の趙の国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえこの頸(くび)を刎ねられても悔いはござらぬ」といい、また相如も「私も将軍のためならば、喜んでこの頸を差し出しましょう」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。

耶律喜隠

し、喜隠を再び獄中に置いた。4月、喜隠は許されて、睿智蕭皇后の姉を妻に迎え、爵位を回復して宋王に封じられた。 喜隠は軽はずみで決まった心がなく、少し順境にあると調子に乗っておごり高ぶった。帝が召し出しても行かないことが時々あり、帝の怒りを買って鞭打たれ、この恨みのために反乱を計画した。

耶律忒末

毋以我故、堕其機穽、以虧忠節。且忠孝難両全、汝能固守、不失国家大計、我視刀鋸甘如蜜矣』。天祐慟哭承命、馳至藁城、以賊書示天沢。天沢曰『王陵之事、照耀史冊、汝能遵父命、忠誠許国、功不在王陵下』。天祐乃趨還趙壁、率衆殊死戦、仙怒、尽殺忒末家一十八人」 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝 『新元史』巻135列伝32耶律忒末伝

耶律斜軫

8月、帰還すると、功績により守太保の位を加えられた。統和6年(988年)、聖宗の南征に従軍し、涿州を陥落させると、宋軍を追撃して撃破した。後に魏王に封じられた。統和17年(999年)9月、睿智太后の南征に従軍し、軍中で死去した。 庶子の耶律狗児は、小将軍に上った。 『遼史』巻83 列伝第13

耶律楚材

て3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。

耶律厮不

『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「乙亥、留哥破東京、可特哥娶万奴之妻李僊娥、留哥不直之、有隙。既而耶廝不等勧留哥称帝、留哥曰『向者吾与按陳那衍盟、願附大蒙古国、削平疆宇。倘食其言而自為東帝、是逆天也、逆天者必有大咎』。衆請愈力、不獲已、称疾不出。潜与其子薛闍奉金幣九十車・金銀牌五百、至按坦孛都罕入覲」 ^

耶律金山

伐之、二王子席巻而東、与金兵三万、戦于開州館。金兵不克、退守大夫営、二王子進攻之、遣人告北界兵馬使云『爾不送粮助我、我必侵奪汝疆。我於後日樹黄旗、汝来聴皇帝詔。若不来、将加兵于汝』。至其日、果樹黄旗、兵馬使不往。明日、使其将鵝児・乞奴、引兵数万、渡鴨緑江、攻寧朔等鎮、掠城外財穀畜産而去」 ^ 池内1943

耶律喊舎

之。哈真患之、遣通事趙仲祥、与我徳州進士任慶和、来牒元帥府曰『皇帝以契丹兵逃在爾国、于今三年、未能掃滅故、遣兵討之。爾国惟資糧是助、無致欠闕』。仍請兵、其辞甚厳。且言『帝命、破賊後、約為兄弟』」 ^ 『高麗史』巻103列伝16趙沖伝,「於是、以尚書省牒答曰『大国興兵、救患弊封、凡所指揮、悉皆応副』。

耶律天祐

賊。天祐倉皇巷戦、手殺数十人、身被十餘瘡、斬関出、復収散卒囲城」 ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「丁亥、賊棄城走、追至藁城、会天沢兵夾撃、殺林。加奉国上将軍・洺州征行元帥、兼趙州安撫使。以傷憊致仕、居趙、卒。孫世枻、朝列大夫・江西榷茶都転運使」 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝

耶律禿花

耶律 禿花(やりつ トガン、Yelü Toγan、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人千人隊長(ミンガン)の一人。兄の耶律阿海とともに契丹人の中では最も早くチンギス・カンに仕え、モンゴル帝国内ではモンゴル人に次ぐ極めて高い地位を与えられた。 『集史』などのペルシア語史料ではطوقان وانشی(Ṭūqān