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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

蕭殺

[しょうさつ]
(秋の末の)ものさびしいさま。
「~たる枯れ野」

คำที่เกี่ยวข้อง

蕭蕭

(1)風雨・落葉などの音のものさびしいさま。 「一陣の清籟~として起り/自然と人生(蘆花)」 (2)ものさびしいさま。 「孤影~たるを想像し来れば/欺かざるの記(独歩)」

蕭

「蕭」は中華人民共和国の第二次漢字簡化方案で「肖」と書き換えられたため、その時代やその以前に生まれた人の身分証明書では姓が「肖」と記されることが多い。改姓の手続きが困難であるため、「肖」のままで定着したことも多い。2020年の中華人民共和国の第7回全国人口調査(中国語版)(国勢調査)に基づく姓氏統計によると「肖」は中国で33番目に多い姓(758

蕭銑

阻ませたが、清江口に敗れ、多数の戦艦を鹵獲された。宜昌・当陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが、鹵獲した無人の梁の軍船を浮かべて江陵が既に陥落したように見せる李靖の献策で梁の援軍の行軍が遅れたこともあって援軍は到着せず

蕭白

⇒ 曾我蕭白

蕭寥

ひっそりとしてものさびしいさま。 「室外の天下は~たる秋である/野分(漱石)」

蕭颯

ものさびしいさま。 特に, 秋風が吹いて心細いさま。 「宸襟(シンキン)を~たる寂寞の中に悩さる/太平記 18」

蕭条

ひっそりとしてもの寂しいさま。 「十一月の近(チカヅ)いたことを思はせるやうな~とした日で/破戒(藤村)」

蕭瑟

秋風がものさびしく吹くこと。 また, そのようなものさびしい音がすること。 さびしいさま。 「候虫(コウチユウ)の声~たり/緑簑談(南翠)」

蕭索

ものさびしいさま。 蕭条。 「実(ゲ)に~たる土地(トコロ)なるが/鬼啾々(夢柳)」

蕭鏘

蕭 鏘(しょう しょう、469年 - 494年)は、南朝斉の皇族。鄱陽王。字は宣韶。高帝蕭道成の七男。 蕭道成と陸修儀のあいだの子として生まれた。昇明3年(479年)、蕭道成が斉王となると、蕭鏘は開国県公に封じられた。同年(建元元年)、蕭道成が皇帝に即位すると、蕭鏘

蕭紀

で皇帝即位を宣言した。 即位後、蕭紀は侯景を討つため天正元年(552年)8月に東征を開始した。4月の段階で侯景は蕭繹によって滅ぼされていたものの、蕭紀の長男の蕭円照(中国語版)は策を巡らせて侯景が滅んだことを蕭紀には知らせない

蕭綸

蕭 綸(しょう りん、生年不詳 - 551年)は、南朝梁の武帝蕭衍の六男。邵陵携王。字は世調。 蕭衍と丁充華のあいだの子として生まれた。若くして聡明で、博学で文章をよくし、尺牘を最も得意とした。天監13年(514年)、邵陵郡王に封じられた。寧遠将軍・琅邪彭城二郡太守として出向し、軽車将軍・会稽郡太

蕭統

側室)丁令光。廃帝豫章王蕭棟の祖父で、後梁の宣帝蕭詧の父である。 頭脳明晰であり、3歳で『論語』『孝経』を読み、5歳で五経を全て読破したと言われる聡明な人物で、武帝の皇太子として、成人してからは国政に携わり、民衆に仁政を行った。また、文章家としても後世に知られている。

蕭勃

勃は鎮南将軍・広州刺史に任じられた。太清6年(552年)、侯景の死によって乱が平定されると、王琳が広州刺史とされ、蕭勃は晋州刺史とされた。承聖3年(554年)、西魏が江陵を攻め落とすと、 蕭勃は再び広州刺史となった。 梁王蕭方智が承制すると、蕭勃

蕭荘

荘も北斉へと亡命を余儀なくされる。南朝正統を自称する陳に対抗すべく、北斉は蕭荘を梁王に封じ、梁の復興に支援を行うが、北斉の滅亡により実現することはなかった。後に北斉の後主高緯が北周によって殺されたことを聞いた蕭荘は、痛憤のあまり鄴にて死去したという。 【蘭陵蕭氏(中国語版)系図】(編集) 表示 編集

蕭何

単父の豪族の呂公が敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、接待のすべてを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。

蕭譲

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 蕭 譲(しょう じょう)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。 梁山泊第四十六位の好漢。地文星の生まれ変わりで、能筆家であると同時に様々な書家の書体を模倣すことが得意であったため、聖手書生(せいしゅしょ

蕭引

つぶさに説明してみせたので、宣帝は喜んでその日のうちに金部侍郎に任じた。 蕭引は隷書を得意として当時に重んじられ、宣帝は「この字は筆勢翩翩、鳥の飛ばんと欲するに似たり」と評した。太建7年(575年)、戎昭将軍の号を加えられた。太建9年(577年)、中衛始興王諮議参軍に任じられ、金部侍郎を兼ねた。太建

蕭歓

蕭 歓(しょう かん、? - 大同6年12月9日(541年1月20日))は、南朝梁の皇族。豫章王。字は孟孫。 梁の昭明太子蕭統と金華敬妃蔡若音(蔡興宗の子の蔡撙の娘)のあいだの長男として生まれた。華容公に封じられ、東中郎将・南徐州刺史に任じられた。中大通3年(531年)6月、豫章郡王に封じられた。