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藤原公実

『殿暦』嘉承2年7月28日条 ^ 樋口健太郎は「公実を含む閑院流には天皇を後見するために必要な有職故実が伝わっていなかった上に、鳥羽天皇の即位時に閑院流の公卿は権大納言の公実と弟の権中納言の仲実しかおらず、輔仁親王という皇位継承を巡る競争相手が控えた鳥羽天皇の後見として閑院流(公実・仲実兄弟)は頼りにならな

คำที่เกี่ยวข้อง

藤原実綱 (公教男)

さねつな)は、平安時代後期の公卿・歌人。内大臣・三条公教の長男。官位は正三位・権中納言。二条中納言と称される。 生年は不詳ながら、卒年が53(『公卿補任』)、54(『尊卑分脈』)、もしくは55(『山槐記』)とあることから、大治元年〜3年の生まれと推測される。父・公教は大治元年に蔵人頭となっている。母は僧侶林覚の

藤原友実

病にかかったときの様子が書かれており、風病の治療法を探していた師通は、友実を呼んで『世説第三』を調べさせた所、湯治が良いとあったという。著作に『野沢佳趣』。 父:藤原季綱 母:藤原親経女 妻:大学頭棟綱女 男子:藤原能兼 - 子に藤原範兼・範季ら。 女子:源仲政室 - 源三位頼政の生母。 ^ 続群書類従完成会

藤原経実

宮権大夫を止める。嘉保3年(1096年)1月、権中納言に任ぜられる。 承徳2年(1098年)1月、正二位に昇叙。 承徳3年(1099年)6月28日、舎兄である関白内大臣藤原師通が薨去。 康和2年(1100年)7月17日、中納言に転正。 康和3年(1101年)2月13日、前関白太政大臣藤原師実が薨去したため喪に服し、3月15日に復任した。

藤原実方

ウィキクォートに藤原実方に関する引用句集があります。 藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。 父・定時が早逝したため、叔父で大納言・藤原済時の養子となる。

藤原頼実

らに後鳥羽上皇の乳母・卿局を室に迎えて、夫妻で後鳥羽院政の中枢に立った。 頼実の望みは、父・経宗の如く左大臣・一上として太政官を統轄することにあったが、後鳥羽院が大臣降任の例はないと難色を示したため、左大臣就任は諦めざるを得なかった。一方、もう一つの望みである娘・麗子の入内については室の協力もあり、

藤原実頼

をみなへし 見るに心は なぐさまで いとど昔の 秋ぞこひしき 続古今和歌集 池水に 国さかえける まきもくの たまきの風は いまものこれり 新千載和歌集 鶯の やどの花だに 色こくは 風にしらせで しばしまたなむ 私家集 清慎公集 逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな [脚注の使い方]

藤原実資

^ 『小右記』寛和元年4月28日条 ^ 『小右記』万寿2年3月8日,20日条の四十九の厄を迎えたという記述による 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年 佐々木恵介『天皇の歴史3 天皇と摂政・関白』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。ASIN B0

藤原忠実

いった経緯のためか、忠通の六男の兼実は文治年間になって先の戦乱は忠実を含めた保元の乱の怨霊が起こしたいのではないか?と推測(『玉葉』文治2年2月18日条)し、忠通の十一男慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述し

藤原師実

寛治5年(1091年):藤原清衡より摂関家に初入貢(軍馬2蹄)。 寛治8年(1094年)3月8日:関白を辞す。後任は子の師通。 康和3年(1101年) 1月29日:出家。法名は法覚。 2月13日:薨去。享年60。 父:藤原頼通 母:藤原祇子 - 藤原頼成娘 妻:源麗子 - 藤原信家養女、実は源師房娘 男子:藤原師通(1062-1099)

藤原顕実

勅答使を務む。 寛治4年(1090年)正月28日:太皇太后宮亮・周防権介を兼ぬ(少将労)。 寛治8年(1094年)3月28日:右近衛中将に転ず。兼官如元。 嘉保2年(1095年) 正月7日:正四位下に叙す(臨時)。 正月28日:備後介を兼ぬ(少将労)。 2月15日:祈年穀奉幣にて奉幣使に任ず。

藤原信実

藤原 信実(ふじわら の のぶざね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公家・画家・歌人。藤原北家長良流、左京権大夫・藤原隆信の子。官位は正四位下・左京権大夫。 父・隆信と同様に絵画・和歌に秀で、水無瀬神宮に伝わる国宝『後鳥羽院像』は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねる事で主体の面影を捉える

藤原実政

男子:藤原清宗 生母不明: 男子:勝源 女子:藤原有信妻 女子:藤原公実室 ^ a b 『今鏡』すべらぎの上 第一 司召 ^ 『今鏡』『十訓抄』等 ^ 左中弁について、正員(左中弁)には権官(権左中弁)を経て任官されることが慣例となっていた(和田英松『新訂 官職要解』講談社学術文庫、1983年、65頁)。

藤原定実

元永本古今和歌集 - 伝源俊頼 巻子本古今和歌集 - 伝源俊頼 下絵拾遺抄切 - 伝源俊頼。『拾遺抄』巻一・三の8点が知られる巻物の断簡。銀泥で帳・鳥・草花・折枝などを下絵に描く。書芸文化院などに分蔵。 後撰和歌集切 - 伝源俊頼・伝藤原公任筆 経裏切 - 伝源俊頼 『筋切』『通切』 - 伝藤原佐理筆 治暦4年(1068年)

藤原滋実

允であった滋実は左近衛将曹兼出羽権大目・茨田貞額とともに雄勝郡・平鹿郡・山本郡の三郡の不動穀を郡内および添河・覇別・助川の三村の俘囚に与えて、民心を慰諭し励勉させる。こうして懐柔した俘囚の深江弥加止らに反乱を続けていた夷俘を討たせ、乱は鎮定された。 8月末に夷俘300余人が秋田城下に押し寄せ、官人に

藤原実範

生母不明の子女 男子:藤原行綱 男子:興義 男子:実慶 養子女 男子:藤原業仲 - 実は高階業敏の子 子の成季、季綱らも父と同様に文章道によって名をなし、その子孫からも文章博士を輩出したため、実範は後世、南家の家学の祖として一門の尊崇を受けることとなった。また三男の季兼の子孫は熱田神宮の大宮司職を世襲する家柄となった。

藤原実家

藤原 実家(ふじわら の さねいえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿・歌人。藤原北家閑院流徳大寺家、右大臣・徳大寺公能の次男。官位は正二位・大納言。藤原俊成は母方の伯父にあたる。 久安3年(1147年)に叙爵し、保元元年(1156年)に侍従・左少将・中宮権亮に任じられ、翌年に従五位上に

藤原高実

父良平の松尾北野行幸行事の賞 ^ 院御給 ^ 父良平の院司の賞 ^ 東一条院去年大嘗会の賞 ^ 同日、父良平は内大臣から左大臣に転任 ^ 父良平は左大臣を辞す ^ 素懐の意思による 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)

藤原実教

に出仕を続けたという。嘉禄3年(1227年)3月26日に病を発し、4月3日の朝に薨去。享年78。 糸竹音曲に携わったという。後鳥羽天皇の笛の師でもあった。 なお実教は、下記の史料から漢字を書けなかった可能性が高い。 臨時祭の日程や使者を決めて定文にそれらを書いて奏上する臨時祭定で執筆役を務めた際、

藤原実宗

復任した。元久2年(1205年)11月24日、内大臣に任ぜられる。建永元年(1206年)3月13日、内大臣を辞退した。同年11月27日、出家。建暦2年(1212年)10月29日、薨去。 後に西園寺家と称されることになる藤原通季の子孫の中で、実宗は初めて内大臣に任