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รายละเอียดคำ

藤原黒麻呂

藤原 黒麻呂(ふじわら の くろまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の次男。官位は従四位下・因幡守。 近江国に生まれる。宝亀5年(774年)正月に正六位下から二階昇叙され従五位下に叙爵し、上総介に任ぜられ現地に赴任。近辺の原野を開墾して牧野とし藻

คำที่เกี่ยวข้อง

藤原小黒麻呂

藤原 小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)は、奈良時代の公卿。藤原北家、従五位下・藤原鳥養の次男。官位は正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲二等。 天平5年(733年)藤原鳥養の次男として誕生。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の論功によって従五位下・伊勢守に叙任される。称徳朝では式部少輔・安芸守・中衛少将を歴任する。

藤原麻呂

加叙を受けるが、中でも麻呂は一挙に5階の昇叙により従四位上に叙せられる。同年6月に左右京大夫に任ぜられた。 神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って武智麻呂・房前が正三位に昇叙、翌神亀2年(725年)には蝦夷征討の功労により宇合が従三位に叙

藤原内麻呂

された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれなかった父・真楯より一階級上の右大臣に至り、平城朝~嵯峨朝初期にかけては台閣の首班を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた。 桓武天皇が即位した天応元年(781年)従五位下に叙爵し、翌天応2年(78

藤原仲麻呂

(筑波大学文学博士学位論文・昭和58年3月25日授与(乙第122号)) ^ 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、39p ^ 木本 2011, 「光明・仲麻呂政治体制」再論、38p ^ 『続日本紀』天平勝宝元年10月24日条 ^ 岸俊男『藤原仲麻呂』134頁。 ^ 『続日本紀』天平勝宝4年4月9日

藤原縄麻呂

進した。称徳朝では、御前騎兵将軍・民部卿・勅旨大輔・侍従などを歴任する一方、天平神護2年(766年)正四位上、神護景雲2年(768年)従三位と引き続き順調に昇進した。 神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、左大臣・藤原永手らと共に白壁王を皇嗣に擁立(光仁天皇)する。翌宝亀2年(771年)

藤原乙麻呂

9月20日:兵部大輔 天平19年(747年) 正月20日:従五位上 天平勝宝元年(749年) 11月26日:正五位上(越階) 天平勝宝2年(750年) 3月12日:大宰少弐。10月1日:従三位(越階)、大宰帥 天平勝宝4年(752年) 止大宰帥か 天平宝字元年(757年) 6月16日:美作守 天平宝字3年(759年)

藤原楓麻呂

位下、宝亀3年(772年)には参議に任じられて公卿に列す。楓麻呂の参議登用については、太政官の首班であった左大臣・藤原永手が前年2月に没したことで、太政官構成において北家が実質的に大納言・藤原魚名のみ(藤原清河は在唐)となっていたことから、楓麻呂の登用により藤原各家の均衡をとり(南家:2人、北家:2

藤原田麻呂

天応元年(781年)には、右大臣・大中臣清麻呂、大納言・石上宅嗣の死去に伴い、大納言兼近衛大将へと、順調に昇進する。光仁朝末から桓武朝にかけての急速な昇進については、両天皇からの信頼の厚さもさることながら、太政官の勢力を抑制して天皇権力の確立を企図していた両天

藤原富士麻呂

藤原 富士麻呂(ふじわら の ふじまろ)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、讃岐守・藤原村田の次男。官位は従四位下・陸奧出羽按察使。 淳和朝において、春宮・正良親王に仕えその寵遇を受ける。天長10年(833年)春宮少進に任ぜられ、やがて近衛将監に転任する。同年3月の正良親王の即位(仁明天皇

藤原小湯麻呂

藤原 小湯麻呂(ふじわら の おゆまろ)は、奈良時代の貴族。名は小弓麻呂、湯麻呂とも記される。藤原南家、太師・藤原仲麻呂の子。官位は従五位上・丹波介。 天平宝字2年(758年)丹波介に任ぜられ、父・藤原仲麻呂や兄弟らとともに藤原朝臣から藤原恵美朝臣に改姓する。藤原仲麻呂政権下で丹波介を務めながら、

藤原訓儒麻呂

東海・東山両道の人民からの要望を受け入れて行われた、天平勝宝9年(757年)の恩詔による租税の対象年齢の1歳繰り上げが正丁と中男に限定されていることから、老丁・耆老も同様に繰り下げるべき旨を奏上する。この提案は認められて、60歳は老丁、65歳は耆老として扱うように変更された。 下野国の毛野川(鬼怒川)について、洪水を防ぐため

藤原武智麻呂

藤原氏の氏上としての立場を明確にした。なお、変後の主要人事が武智麻呂の昇進だけであったことも、武智麻呂が乱を主導した説を補強する材料となっている。 天平2年(730年)8月に弟の宇合・麻呂を参議に昇進させて議政官に加えることで藤原四子政権(藤原武智麻呂

藤原蔵下麻呂

字8年(764年)正月に山陽道諸国で複数の国守の入れ替えが行われ、蔵下麻呂は備前守として地方官に転じた。これは、前年度より山陽道で旱魃が続いており、旱天に伴う食料不足に対応するため、新しい地方官人事によって事態の打開を図ろうとした藤原仲麻呂の意図によるものと考えられる。なお、同年の藤原仲麻呂の乱に直

藤原福当麻呂

『尊卑分脈』による。 父:藤原内麻呂 母:坂上登子 - 坂上苅田麻呂の娘 生母不詳の子女 男子:藤原諸数 男子:藤原世数 男子:藤原依作 男子:藤原真数または貞数 男子:藤原数守 男子:藤原数長 女子:藤原賀登子 - 仁明天皇後宮 ^ 『尊卑分脈』 森田悌『日本後紀 (中)』講談社学術文庫、2006年

藤原巨勢麻呂

^ 『続日本紀』天平宝字6年11月10日条 ^ a b 『尊卑分脈』 ^ 出自は不明だが、『尊卑分脈』によると川合・真書・伊勢人は同母兄弟であるとされる。 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社学術文庫、1995年 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代(764年)に起きた叛乱。恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)ともいう。孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして失敗した事件である。 藤原仲麻呂は、叔母の光明皇后の信任を得て、大

麻呂

〔「まろ(麻呂)」の転。 中世後期以降の語〕 ※一※ (接尾) (1)人名, 特に稚児に用いる。 「牛若~」「蝉~」 (2)刀, 楽器, その他の器物の名に用いる。 「膝切~」「抜~」 (3)船の名に用いる。 「咸臨~」 (4)種々の物や人名などに付けて, 親愛の意を表す。 「翁~」「もず~」 ※二※ (代) 一人称。 中世後期, 天皇またはこれに準ずる人が用いた。 「~が千人の后のましませども/御伽草子・熊野」

麻呂

※一※ (代) 一人称。 わたし。 身分の上下や男女を問わず使用した。 「~が父(チ)/古事記(中)」 ※二※ (接尾) (1)人名に付いて, 主として男子の名をつくる。 「柿本人~」「和気清~」 (2)人の呼称や動物の名などに付いて, 親愛の意を表す。 「うま~」「さる~」

矢田部黒麻呂

斎食(さいじき、服喪の間の食事は午後は抜く)を16年続け、終始かかさなかった。そこで宝亀3年(772年)11月、天皇はその雑徭を免じて孝行を顕彰した、とある。。これは賦役令17の「孝子順孫条」によるものである。 礼記の定める斎食