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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

蜀漢

[しょくかん]
⇒ しょっかん(蜀漢)

蜀漢

[しょっかん]
中国, 三国の一。 後漢(ゴカン)の滅亡後, 劉備(リユウビ)が蜀(四川省)に建てた漢(221-263)の称。 二代で魏(ギ)に滅ぼされた。 蜀。

คำที่เกี่ยวข้อง

王連 (蜀漢)

子の王山が跡を継ぎ、後に江陽太守となった。 陳寿は、その節義は固く移ろわなかったと評している。また季漢輔臣賛では、その行いは世の規範であり、軍資を増やして職務を全うしたと称えている。 柿沼陽平は王連を卓越した財務官僚として評価し、彼の死後に不振となった専売制の代わりとなる新たな財源を求めて、諸葛亮は南征に踏み切ったのではないか、と推測している。

王崇 (蜀漢)

の劉璋)によって蜀郡太守に任命され、懿徳高名であった。父の王彭は蜀漢の巴郡太守であり、子の王崇ら四兄弟はみな名声があった。王崇は学業淵博識であり、雅びやかで粋な性格であり蜀漢では史官である東観郎を勤めた。蜀漢滅亡後、寿良・李密・陳寿・李驤・杜烈(杜軫の弟)と共の都に入り西晋に仕えた。6人は益州・梁州

劉敏 (蜀漢)

れ、孝廉に推挙された。蜀漢の劉禅の時代、侍御史となって秩序の維持に当たり、名実を備え、朝廷内で称賛を集めた。 建興9年(231年)、諸葛亮が上奏した李厳の弾劾状において、行右護軍・偏将軍として名を連ねる。その後は左護軍・揚威将軍に昇進し、王平と共に漢中に駐屯した。

天漢 (前蜀)

天漢(てんかん)は、五代十国時代の十国のひとつ前蜀において王建の治世で用いられた元号。917年。 プロジェクト 紀年法 他政権の天漢

劉永 (蜀漢)

に含まれるため、建興8年(230年)には劉禅により甘陵王に改封された。 延熙9年(246年)、董允が死去し、宦官黄皓が政治に関与しはじめると、互いに反目しあっていた劉永と黄皓はさらに対立し、黄皓は劉禅に讒言した。そして、それを信じた劉禅によって、劉備の遺詔を受けた身でありながら、10年余りにわたり朝

馬忠 (蜀漢)

換により諸葛亮の陣へと戻された。また北伐の際に諸葛亮の指示に従い、弩の伏兵を用い張郃を射殺するという大功を挙げた。 [脚注の使い方] ^ 『華陽国志』巻四 ^ 『尚書』(皋陶謨)に「擾にして毅」とあり、鄭玄が注して、「擾とは馴(おとなしい)である、果を致す(断行する)ことを毅という。」といっている。

李豊 (蜀漢)

李 豊(り ほう、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の武将。荊州南陽郡の人。父は李厳(李平)。 章武8年(230年)、江州に駐屯していた李厳は、魏将曹真を迎撃するために漢中へ向かった。李豊は諸葛亮の上表によって江州都督督軍に任命され、父の職務をそのまま司った。諸葛亮によれば、この人事は李

李邈 (蜀漢)

後主は立腹し、獄に下して彼を処刑した。 裴松之の考えでは、『益部耆旧雑記』の記述は李朝・李邵および夭折の弟を合わせて三龍としたものだと思われる。李邈の度外れな率直さは、この数に入れることができないからである。 陳寿著:裴松之注『正史 三国志 5 蜀書』(井波律子 訳、ちくま学芸文庫)- ISBN 4-480-08045-7

蜀漢の滅亡

蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)では、中国の三国時代における、魏の鄧艾・鍾会らが蜀漢(蜀)を滅ぼした戦いについて記述する。 蜀漢の丞相の諸葛亮が死去した後、蜀漢の国力は徐々に衰えていた。そして姜維の相次ぐ北伐と256年の段谷の戦いでの大敗により、国力は大いに衰えた。また258年以降に宦官の黄皓が

蜀

(1)中国, 四川省の別名。 秦・漢時代に灌漑施設が整備され, 生産が高まり, 劉備がここに蜀漢を建てて以来しばしば独立国が形成された。 → 望蜀 (2)三国時代の王朝。 → 蜀漢 (3)五代十国の王朝。 → 前蜀 → 後蜀

蜀魂

※一※ (名) (1)ホトトギス目ホトトギス科の鳥。 全長約30センチメートル。 尾羽が長い。 背面は灰褐色。 腹面は白色で黒い横斑がある。 ウグイスなどの巣にチョコレート色の卵を産み, 抱卵と子育てを仮親に託す。 鳴き声は鋭く, 「テッペンカケタカ」などと聞こえる。 夏鳥として渡来し, 山林で繁殖して東南アジアに渡る。 古来, 文学や伝説に多く登場し, 卯月(ウヅキ)鳥・早苗(サナエ)鳥・あやめ鳥・橘鳥・時つ鳥・いもせ鳥・たま迎え鳥・しでの田長(タオサ)などの異名がある。 ﹝季﹞夏。 《~平安城を筋違に/蕪村》 (2)(「時鳥草」「杜鵑草」「油点草」の文字を当てる)ユリ科の多年草。 丘陵や低山の湿った場所に生える。 高さ約60センチメートル。 葉は互生し, 狭長楕円形で基部は茎を抱く。 秋, 葉腋に白色で紫斑がある花を一~三個ずつつける。 花被片は六個。 和名は花の斑を{(1)}の胸の斑に見立てたもの。 ほととぎすそう。 ﹝季﹞秋。 ※二※ (枕詞) {※一※(1)}が飛ぶ意から類音の地名「飛幡(トバタ)」にかかる。 「~飛幡の浦にしく波のしくしく君を/万葉 3165」

蜀錦

「蜀江(シヨツコウ)の錦(ニシキ)」に同じ。

蜀黍

(1)イネ科の一年草。 アフリカ原産。 食用・飼料とするため, 温帯・熱帯地方で広く栽培される。 形状はトウモロコシに似る。 夏, 茎頂に多数の小穂が円錐状につく。 実を精白・製粉して食用とする。 高粱(コーリヤン)は本種の一品種。 タカキビ。 トウキビ。 (2)トウモロコシの別名。 トウキビ。 ﹝季﹞秋。

蜀魂

〔蜀の望帝の魂が化したという伝説から〕 ホトトギスの別名。 蜀魄(シヨクハク)。 蜀鳥。

望蜀

〔後漢の光武帝が隴(ロウ)の国を平定したのち, さらに蜀の国をも望んだという「後漢書(岑彭伝)」の故事から〕 一つの望みをかなえてさらに次の望みをもつこと。 「~の嘆」 → 隴を得て蜀を望む

古蜀

古蜀(こしょく)は、古代の蜀にあった国。東晋時代の地誌『華陽国志』にその歴史が詳しく記されているが、司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍司馬錯に滅ぼされたことが記されるのみである。 東は巴、南は越、北は秦、西は峨眉山に接し、天府と称され、原名を華陽と言った。武王の帝辛(紂王)討伐にも参加し

蜀州

県を管轄した。 1283年(至元20年)、元により崇慶府は崇慶州に降格した。崇慶州は成都路に属し、晋原・新津の2県を管轄した。 1369年(洪武2年)、明により晋原県は廃止され、崇慶州に編入された。崇慶州は成都府に属し、新津県1県を管轄した。 清のとき、崇慶州は成都府に属し、属県を持たない散州となった。

蜀郡

蜀郡(しょく-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の四川省成都市を中心とした地域に設置された。 紀元前285年(秦の昭襄王22年)、蜀侯綰が反乱を疑われて処刑されると、蜀郡が置かれた。郡治は成都に置かれた。 前漢のとき、蜀郡は益州に属し、成都・郫・繁・広都・臨邛・青衣・江原・