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รายละเอียดคำ

袁金鎧

[脚注の使い方] ^ a b c d 徐主編(2007)、1108頁 ^ 山室(2004)、85頁 ^ 「奉天維持委員会 本庄司令官から委嘱」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月25日。 ^ 趙欣伯は当初の地方維持委員会委員9名には含まれていない。翌月、奉天市長に就任。

คำที่เกี่ยวข้อง

鎧

〔動詞「よろう」の連用形から〕 (1)身体をおおいまもるために, 鉄・革などで作って着用する戦闘用の防具。 (2)大鎧(オオヨロイ)のこと。 → 大鎧 (3)兜(カブト)や袖に対して, 胴鎧(ドウヨロイ)のこと。

鎧球

〔鎧(ヨロイ)のような防具をつけることから〕 アメリカン-フットボール。

鎧駅

TBS系列ドラマ『砂の器』(2004年放送)の第2話において「丹後神山駅」という駅名でロケ地となった駅である。 過去には鎧漁港で水揚げされた海鮮物を貨物列車で運び出すために港と駅がインクライン(傾斜鉄道)で結ばれており、現在も遺構が残る。 2001年冬の「青春18きっぷ」のポスターに使用された。

大鎧

上述の小札を、色糸やなめし革の紐を用いて縦方向に連結することを「威す」といい(「緒通す」がその語源とされている)、連結したものを縅と言う。小札の穴を通して繋ぎ合わせる組紐(絲)や韋(かわ)。威の色・模様・材質等により紺絲威(こんいとおどし)、匂威(においおどし)、小桜韋黄返威

鎧淳

訳者「まえがき」『ナラ王物語 ダマヤンティー姫の数奇な生涯 マハーバーラタ』、3頁、岩波文庫、第3刷1991年4月発行。 ^ 佐藤智水「故鎧淳先生(梵学心院春陽照淳居士)7回忌によせて:故鎧淳先生(1930年11月24日-2015年5月22日)の著作目録」2022年、hdl:2297/00066471。 

鎧橋

り、鎧の渡しの実態を知ることが出来る。これによると極印のある渡し船は2艘、水主(船頭)は4人(1人・日給150銭+飯料150銭)、運賃の受け取り役である渡銭は2人(1人・日給53銭+飯料150銭)。有料利用者数は1ヶ月3万7千人で、近くにある無料の江戸橋を利用する者も多かったことを考えると、1日12

鎧潟

鎧潟(よろいがた)は、かつて新潟県西蒲原郡(現在の新潟市西蒲区)に位置していた潟湖。旧巻町、旧西川町、旧潟東村にまたがっていた。 面積は約9平方キロメートル。 中ノ口川と西川にはさまれた低湿地に潟湖が形成されたもので、排水池や用水池として利用された。 しかし、流れ出る河川が無かった

袁枚

(1716-1797) 中国, 清代の詩人。 字(アザナ)は子才, 号は簡斎。 世に随園先生と称される。 詩法に拘泥せず性霊説を唱え, 清新奇抜な詩をつくり, 古文・駢文(ベンブン)にもすぐれた。 主著「小倉山房集」「随園詩話」「随園食単」

袁翻

袁 翻(えん ほん、476年 - 528年)は、北魏の官僚・文人・政治家。字は景翔。本貫は陳郡陽夏県。 袁翻の父の袁宣は筆才があり、南朝宋の青州刺史の沈文秀の下で主簿をつとめた。469年(南朝宋の泰始5年、北魏の皇興3年)、北魏の慕容白曜が青州州治の東陽城を陥落させると、袁宣は沈文秀に従って北魏に降

袁安

袁 安(えん あん、? - 92年)は、後漢初期の中国の官僚。字は召公。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。袁安自身を含め4世代で5人の三公を出した後漢時代の名門汝南袁氏の始祖となった。袁賞・袁京・袁敞の父。 袁安の祖父の袁良は孟子の易を学んだ儒者で、前漢末期の平帝のとき太子舎人とな

袁盎

の周勃)をどう思われますか」と聞いた。文帝は「社稷の臣である」と答えたが、「社稷の臣とは国家と生きるも死ぬも一体の者です。呂后の時代に太尉となり兵権を持ちながらも正すことができないでいた絳侯は、功臣であっても社稷の臣ではありません。臣が陛下に驕った態度を見せ、陛下が謙譲するのはよろしくないと、臣

袁州

初にかけて、現在の江西省宜春市一帯に設置された。 589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、宜陽県に袁州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、袁州は宜春郡と改称され、下部に3県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。 621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、

袁紹

淳于瓊に指揮させ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。このときに沮授は、淳于瓊に加えて蔣奇に別働隊を指揮させて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。これより以前、袁紹は沮授の軍権を削って郭図と淳于瓊に分け与えるなど、袁紹軍の内部は対立が深刻化していた。

袁煕

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 袁 煕(えん き、? - 建安12年(207年)9月)は、中国後漢時代末期の武将。字は『三国志』魏書袁紹伝では顕奕、『後漢書』袁紹伝では顕雍。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。父は袁紹。母は不

袁渙

罵倒する手紙を書かせようとしたが、袁渙はこれを拒否した。このため呂布は武器を袁渙に突き付け、無理やり書かせようとした。しかし袁渙が顔色を変えることなく、逆に冷静さをもって「人を辱めるのに文書でもってしても、その人(劉備)の徳が高ければ対する者(呂布)が辱められるのです」と説得したため、呂布は恥じ入って引き下がった。

袁譚

翌10年(205年)、袁譚は南皮で一度は曹操を破ったが、その後の再戦に敗れた。袁譚は、必死で馬を馳せて逃走したが落馬、追撃してきた曹純に「私はおまえを富貴にしてやることができるぞ」と命乞いした。しかしそれも空しく、その場で斬首された。袁譚の一族も皆殺しとされ、袁譚の首級は獄門とされ

袁珂

は中華人民共和国の神話学者。本名は袁聖時。筆名に丙生、高標、袁展などがある。 それまで断片的にしか伝来していなかった文献中の中国大陸の神話・伝説・神仙譚など多くの情報を総合的に捉え、系統だった物としてまとめあげた。 四川省新繁県(現在の成都市新都区)出身。 1946年、台湾省編訳館に務める。同館の

袁耽

袁 耽(えん たん、生没年不詳)は、東晋の官僚。字は彦道。本貫は陳郡陽夏県。博打の名人としてしられており「袁彦道(えんげんどう)」とは博打の異名である。 袁沖(袁準の子)の子として生まれた。若くして才気があり、信念と独立心に富んでいて、当時の人士の賞賛を受けていた。博徒として非常に高名で、若いころ

袁氏

袁渙 - 後漢末期の政治家。 袁宏道 - 明代後期の詩人。 袁崇煥 - 明末の軍人。諸葛亮と同格とも言われた逸材だったが、崇禎帝に疑われ殺された。 袁枚 - 清中期の詩人。元々は科挙で合格した政治家だった。 フミンガ - 清末の軍人。本名は袁世福で、袁崇煥の7世の孫。清の漢軍正白旗人に属した。