Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Todaii Japanese
Switch language – current: th
Logo Japanese
[email protected]
(+84) 865 924 966
315 Truong Chinh, Ha Noi
www.todaiinews.com
DMCA.com Protection Status

เกี่ยวกับ Todaii Japanese

เรื่องราวแบรนด์คำถามที่พบบ่อยคู่มือผู้ใช้ข้อกำหนดและนโยบายข้อมูลการคืนเงิน

โซเชียลเนตเวิร์ค

Logo facebookLogo instagram

เวอร์ชันแอป

AppstoreGoogle play

แอปอื่น

Todaii German
Todaii Super
Todaii English
Todaii Chinese
Todaii Korean
DMCA.com Protection Status

ลิขสิทธิ์เป็นของบริษัท eUp Technology JSC

Copyright@2026

พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

西晋

[せいしん]
⇒ 晋(2)

คำที่เกี่ยวข้อง

建武 (西晋)

建武(けんぶ)は、西晋の恵帝の治世に使われた元号。304年。 プロジェクト 紀年法 元年7月:建武と改号。 元年11月:永安に元号を戻す。 『三国志』(中華書局 1974年) 『中国歴代年号考』李崇智(中華書局 2004年) 元号一覧 (中国) 他王朝の建武(曖昧さ回避)

愍帝 (西晋)

軍に任じる。3月、漢の部将石勒が幽州を攻略し、大司馬・幽州牧の王浚が殺害された。5月、西平公の張軌が死去。7月、漢の部将劉曜・趙染らが長安に侵攻すると麹允がこれを迎撃、趙染を戦死させた。 建興3年(315年)2月、司馬睿を大都督・督中外諸軍事・右丞相に、司馬保を相国に昇進させ、司空の荀組を太尉に、大

石苞 (西晋)

るが、司馬倫が実権を握った時代に孫秀に疎まれたため刑死した。先に勘当された石喬も石崇に連座し、また孫の石超は八王の乱末期の混乱の中で死去した。曾孫の石樸は、後趙の石勒に同姓の誼みで採り立てられ、司徒にまでなった。 ^ 『晋書』巻3, 武帝紀 泰始九年二月癸巳条による。 『晋書』 - 巻33 列伝第3

西晋一郎

『教育勅語衍義』 賢文館, 1940. 『教学と教育』 第一出版協会, 1940. 教育と行の講習会記録 『東洋道徳研究』 岩波書店, 1940. 『勤労の尊尚』 日本勤労叢書 勤労者教育中央会編. 目黒書店, 1940. 『藤樹学講話』 目黒書店, 1941. 『東洋道徳研究』 岩波書店, 1941 『文教論』

恵帝 (西晋)

恵帝(けいてい)は、西晋の第2代皇帝。諱は衷。武帝(司馬炎)の次男。母は楊艶。無能な人物として有名であり、後世の史家王夫之からは「歴代の皇帝の中でも匹敵するものがない愚か者で、馬鹿すぎて国を潰した」と評された。その治世には各地の諸王による八王の乱と呼ばれる権力闘争が相次ぎ、恵帝

李含 (西晋)

。その後、司徒により領始平中正に任じられた。秦王司馬柬がこの世を去ると、李含は台儀により、葬儀を執り行って除喪の任に従事した。尚書趙浚は身分に対して李含の官職が重い事を妬み、上奏して李含には除喪の任は不適当であると弾劾した。本州大中正傅祗もまた名声と道義の観点から李含を貶めた。だが、中丞傅咸は上表し

王沈 (西晋)

陳寿の『三国志』に劣ったと言われる。唐の劉知幾は『史通』曲筆篇の中で王沈が時流に阿った記述をしたことを責め、陳寿ともども「記言の奸賊、戴筆の凶人」「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と痛論した。 甘露5年(260年)、司馬昭の専横に憤った曹髦は、これを討伐する計画を王沈・王業・王経に打ち明け、協力

陳敏 (西晋)

司馬越が豫州刺史劉喬の討伐に向かうと、陳敏は兵を率いて合流した。だが、司馬越軍は蕭県で敗れた。陳敏は、中原が大乱していたことから、東へ戻ることを請い、兵を収容して歴陽に拠った。呉王の常侍である甘卓が洛陽からやって来ると、陳敏は甘卓へ皇太弟の命令と偽り、自らを揚州刺史に拝させた

孫秀 (西晋)

事で鎮圧された。この乱を受けて孫秀は司馬允の子の秦王司馬郁・漢王司馬迪を始め数千人を連座で処刑し、その際には無関係であった者までもがその財産の没収や私怨の発散を目当てに処刑された。また孫秀は斉王司馬冏の存在も警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。 孫秀が司馬倫に九錫を下賜するよう恵帝に上奏すると

懐帝 (西晋)

懐帝(かいてい)は、西晋の第3代皇帝。諱は熾。初代皇帝武帝の第25子。 太熙元年(290年)に豫章王となる。八王の乱の際には史籍に楽しんで世を避けた。後に車騎大将軍・鎮北大将軍となる。永興元年(304年)、甥の皇太子司馬覃が廃されて皇太弟となる。光熙元年11月(307年1月)に異母兄の恵帝が崩御す

西村晋弥

jp/news/2020/02/snowkel_suteteyo_adachisan.php 2020年2月13日閲覧。  ^ 西村晋弥#4「明日より映画公開&明後日うわの空LIVE vol.75」(2014年8月1日) - うわの空・藤志郎一座 劇団員リレー日記(2018年9月8日閲覧) ^

魏舒 (西晋)

40代の頃、郡の上計掾から孝廉に挙げられた。親族らは魏舒が無学であるため、応じずに名声を保った方が良いと勧めた。魏舒は「もし試験に落ちても私の失敗であり、どうして虚名をかすめ取る真似が出来ようか」と、とにかく百日で一経を習得し、それによって試験に合格した。その後は、澠池や浚儀の県令を経て尚書郎に遷った。当時、非才

劉弘 (西晋)

ておられるのというのに、我は臣下としての節義を全うする事ができずにいる。たとえ家伎であっても演奏させるには耐えないというのに、ましてや天子の音楽など猶更である」と述べ、郡県に命じて彼らを慰撫させ、朝廷の連絡を待って丁重に送り返し、元の官署に戻させた。 陶侃が張昌を破った時、劉弘は感嘆して陶侃へ「我が

周馥 (西晋)

し、同じく召喚命令を受けていた淮南郡太守裴碩のみを洛陽に向かわせた。だが、突如として裴碩は周馥が越権行為を繰り返していると訴え、司馬越より周馥討伐の密旨を受けたと詐称し、周馥を攻撃した。周馥はこれを返り討ちにしたものの、裴碩は撤退して東城を守ると、建業を守る琅邪王司馬睿(後の元帝)に救援を請じた。

王衍 (西晋)

この際、王衍の態度は極めて見苦しいものであった。まず「私の仕官は本意ではなく、今回の抗戦も実のところ私の与り知った事ではない」などと述べ立てて命乞いし、石勒におべっかを使って「王公」と呼びかけた。石勒は初めは喜んでいたが、王衍はなおも見苦し

高平郡 (西晋)

高平郡(こうへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から北斉にかけて、現在の山東省西部に設置された。 山陽郡を前身とした。西晋が建国されると、陳騫が高平公に封じられ、高平国が立てられた。高平国は兗州に属し、昌邑・鉅野・方与・金郷・湖陸・高平・南平陽の7県を管轄した。

晋

〔「すすむ」は「晋」の訓〕 古代中国の「晋」を同音の「秦」と区別する呼び方。 → はたしん

晋

(1)中国, 周代の諸侯国の一((?-前376))。 汾水(フンスイ)流域(山西省)を中心に紀元前七世紀頃から強盛になり, 南方の楚(ソ)と対立したが, 春秋時代末期に国土は韓・魏(ギ)・趙(チヨウ)に三分され滅んだ。 (2)三国の魏の権臣司馬炎が建てた王朝(265-419)。 都は洛陽(ラクヨウ)。 280年呉を滅ぼし中国を統一したが, 八王の乱により衰え, 316年匈奴(キヨウド)の劉曜に滅ぼされた(西晋)。 翌年, 一族の司馬睿(シバエイ)は建業に拠(ヨ)り晋を再興したが, 419年将軍の劉裕に滅ぼされた(東晋)。 (3)五代の一。

後晋

中国, 五代の一。 後唐(コウトウ)の重臣, 石敬瑭(セキケイトウ)が契丹(キツタン)の援助で後唐を滅ぼして建てた中原の王朝(936-946)。 二代で契丹に滅ぼされた。 ごしん。 石晋。