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รายละเอียดคำ

豊後国

『豊後国図田帳』国文学研究資料館『諸国風土記及図田帳』(しょこくふどきおよびずでんちょう)、大和文華館(奈良県)所蔵、1285年。  唐橋君山(1803年)『豊後国志:附・箋釈豊後風土記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(二豊文献刊行会版、1931年写本) 『訓読 豊後

คำที่เกี่ยวข้อง

豊後国志

豊文献刊行会から出版され、1975年(昭和50年)にはこの校訂版の復刻版が附図を付録として文献出版から出版された。 現在では、中川家本を底本とした訓み下し版:太田由佳訳、松田清注『訓読豊後国志』竹田市企画・編集、思文閣出版発行、2018年5月、ISBN 978-4-7842-1934-6 が出版されている。

岡城 (豊後国)

間・4間×3間であったという。宝暦年間(1751年 - 1763年)に描かれた『宝暦御城真景図』では、初重西面に格子窓を持った千鳥破風のような破風1つ、南面に3つの格子窓、3重目に華頭窓と外廻り縁高欄を付けた層塔型に見える背高な三階櫓が描かれ、北側に2重櫓まで続く多門櫓が描かれ、東側に続櫓と御金倉まで続く多門櫓が描かれている。

豊後国分寺

と復原される。この中に中門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南北に並び、金堂の南西に七重塔が位置する大官大寺形式の伽藍を有していた。 現在、観音堂がある場所に塔基壇が、薬師堂がある場所に金堂跡が検出されている。塔は七重塔で、遺構から復元すると基壇の1辺が18メートル、建物は初層の1辺が11メートル、

豊後牛

牛流通促進対策協議会がThe・おおいた豊後牛の認定を始めていた。その一方、玖珠郡玖珠町では玖珠牛、杵築市山香町では山香牛、豊後大野市朝地町では朝地牛と産地毎の銘柄も用いられていた。そこで、豊後牛流通促進対策協議会は2013年4月に豊後牛の銘柄をおおいた豊後牛に統一することを決定した。

豊後豊岡駅

豊後豊岡駅(ぶんごとよおかえき)は、大分県速見郡日出町大字豊岡にある、九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線の駅である。 1911年(明治44年)7月16日:鉄道院が頭成駅(かしらなりえき)として開業(現位置から約200メートル亀川駅寄りに開設)。 1940年(昭和15年)8月1日:現位置に移転するととも

大神氏 (豊後国)

庶幾の玄孫という説もある。 大神良臣 - 壬申の乱の功があった三輪子首の、4世の孫。892年(寛平4年)豊後介の任期を終えて帰京する際、百姓が惜しみ慕って良臣の子・庶幾を同国に留めるように請願した。そのため、庶幾は外従六位下・大野郡擬大領に叙任され、子孫は代々郡司を務めたという。庶幾の玄孫に大神惟基であるという説がある。

大蔵氏 (豊後国)

相撲の名手であり、京で行なわれた「相撲節会」(すまいのせちえ)に出場した記録が残り、『豊後国日田郡司職次第』には、相撲節会に10回出場し無敗であったとある。昔話には出雲小冠者との取り組みが語られ、同様の伝説が『豊西記』に載る。大原八幡宮の大鳥居にある「大波羅野御屋新呂」の変額の書は、永季の相撲節会勝利祈念に大江匡房が書

豊後国風土記

『豊後国風土記』(ぶんごのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された豊後国(ほぼ現在の大分県に相当)の風土記である。現存する5つの風土記のうちのひとつ。 『豊後国風土記』の正確な成立年代は不詳であるが、『日本書紀』中の景行紀とほぼ一致する記事が含まれること等から、720年以降で、遅くとも740年頃まで

海部郡 (豊後国)

天平12年(740年)頃までに成立したとされる『豊後国風土記』において、豊後国の8つの郡のひとつとして海部郡が挙げられている。風土記の海部郡の条には「この郡の百姓は、みな海辺の白水郎(あま)なり。よりて海部の郡という。」と記されており、海部郡の名は、海人が多く住んでいたことに因んで付けられたとされる。

高田城 (豊後国)

」と記され、かつてこの地に城郭が営まれ、その本丸、二ノ丸、三ノ丸と伝承される地域があったことが分かる。本丸部分には「此坪数六千九百八十八坪/八十三間四尺四方也」、二ノ丸部分に「此坪数三万三千五百五十坪/百五十三間三尺四方」、本丸土手部分に「土居高三間高下」、二ノ丸土手部分に「土手三間少高下有」、堀部

豊国

生の地名があり、クスノキは九州に分布する木であり、また少なくとも玖珠郡にはクサボケの自生がある。 大野郡の遺跡や、日田郡の小迫辻原遺跡(おざこ つじばる、日田市)の調査から、弥生時代終盤から古墳時代にかけて集落の移動があり、竪穴建物が方形になったことが分かっている。古墳時代の後半にはそうした住居に

豊後国の二孝女

豊後国の二孝女研究会、2006年3月 『実話 病父を尋ねて三百里 - 豊後国の二孝女物語』 橋本留美、2010年10月、新日本文芸協会、ISBN 4434147765 常陸太田と大分結ぶ孝行物語 現代語訳で復活 茨城新聞 2010年9月18日 姉妹の孝行話継承 江戸期、病の父故郷に 臼杵のグループ 西日本新聞

李豊 (後漢)

梁綱・楽就の3将を陳国に残留させ(『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる)、自分だけ淮南へ逃げ帰った。李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。 小説『三国志演義』では、梁剛(正史の梁綱

豊後水道

技術的制約によりこの地点の存在は知られていなかった。 高島はウミネコやビロウ樹の生息地として大分県の天然記念物に指定されている。また、シギやチドリの来遊地が点在し、たとえば番匠川の河口部の干潟や臼杵湾の沿岸部に存在する。 かつては多くのクジラやシャチなどが見られたとされ、豊後水道や豊予海峡の沿岸部に

豊後崩れ

・府内藩領、大分郡・海部郡・大野郡・中川藩竹田などで517人が召し捕らえられた。豊後国玖珠郡では220人が捕まり、死罪になった者57人、長崎や日田で牢死した者59人、65人が赦免され、江戸送り3人、永牢36人となった。マリオ・マレガの『豊後切支丹史料』・『続豊後切支丹史料』では、臼杵藩内だけで578

豊後街道

豊後街道(ぶんごかいどう)は、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約124キロメートル(31里)の街道である。 江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩や岡藩の参勤交代に用いられた。大分側から見ると肥後国に向かう街道であることから、肥後街道(ひごかいどう

豊後荻駅

2012年度の1日平均乗車人員は31人(前年度比-10人)である。 周囲はかつてあった荻町の中心部にあたる地区で、比較的大きな集落が広がっており、竹田市荻支所にも近い。 白水の滝 竹田市立荻小学校 竹田市立緑ヶ丘中学校 竹田市荻支所 荻保育園 竹田市荻運動広場 荻郵便局 荻の里温泉 高鼻公園

豊後絞り

絞りの技法が伝えられたと言われている。有松・鳴海では豊後では豆絞りと呼ばれる技法が「ぶんご」あるいは「三浦絞り」という名前で代表的な技法の一つとして現在まで伝わっており、これらを扱う業者は「ぶんごや」と呼ばれる。有松・鳴海絞りは1975年に伝統工芸品に指定されたが、三浦絞り

豊国廟

こうして豊国廟は、1880年(明治13年)に修築が行われるまで300年ほど手付かずにされていた。 慶応4年(1868年)閏4月6日、明治天皇が大阪に行幸した際、大阪裁判所(大阪府の前身)に対して豊太閤(秀吉)の祠宇を造営する沙汰書を、同年5月10日に廟祠