Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Logo
หน้าแรก
บทเรียน
สมุดบันทึก
พจนานุกรม
JLPT ข้อสอบฝึกหัด
วิดีโอ
อัปเกรด
ข้อเสนอแนะ
Todaii Japanese
Switch language – current: th
Logo Japanese
[email protected]
(+84) 865 924 966
315 Truong Chinh, Ha Noi
www.todaiinews.com
DMCA.com Protection Status

เกี่ยวกับ Todaii Japanese

เรื่องราวแบรนด์คำถามที่พบบ่อยคู่มือผู้ใช้ข้อกำหนดและนโยบายข้อมูลการคืนเงิน

โซเชียลเนตเวิร์ค

Logo facebookLogo instagram

เวอร์ชันแอป

AppstoreGoogle play

แอปอื่น

Todaii German
Todaii English
Todaii Chinese
Todaii Korean
DMCA.com Protection Status

ลิขสิทธิ์เป็นของบริษัท eUp Technology JSC

Copyright@2026

พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

貞和王后

竜女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海竜王の娘の竜女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海竜王の娘の竜女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘のことである。そして王帝建と西海竜王の娘の竜女

คำที่เกี่ยวข้อง

貞淑王后

貞淑王后 崔氏(ていしゅくおうこう さいし、ジョンスクワンフ チェシ、정숙왕후 최씨、生没年不詳)は、李氏朝鮮の初代国王李成桂の曾祖母である。李行里の妃。本貫は登州。登州で戸長を務めていた崔基烈(최기열)の娘である。李氏朝鮮建国後、李成桂は曾祖母に貞妃(정비)を追号した。玄孫の第3代国王太宗の時代に

貞純王后

1757年、貞聖王后が没すると、英祖は後宮から新しい王妃を選ぶことをせず、1759年に揀択令を発し、仁元王后と同じ新安東金氏から、金漢耈の娘である貞純王后を王妃として迎えた。当時英祖は66歳、貞純王后は15歳であり、李朝歴代王の中で、最も年齢差の大きい婚姻であった。貞純王后

貞聖王后

岑城府夫人 牛峰李氏(朝鮮語版)(1660年-1738年) 兄: 徐命伯(1678年-1733年)- 吏曹判書を追贈された。 甥: 徐徳修(朝鮮語版)(1694年-1722年)- 辛壬士禍で処刑された。 夫: 英祖 子: なし ^ “서종제(徐宗悌)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2024年2月9日閲覧。 ^ “정성왕후(貞聖王后)”

貞顕王后

大妃、徽號曰慈淑、仁惠大王大妃曰明懿、王大妃曰慈順、加上曰恭惠王后、諡號曰徽懿愼粛」朝鮮王朝実録 燕山君日記12巻 燕山2年2月5日 癸丑2回目 ^ 「群公卿士、左右奔走之力是賴、而百寮同辭、請上尊號、以至抗箋陳乞、予不獲已、乃於今月二十六日戊寅、御明政殿、受憲天弘道經文緯武之號、旋率宗親、文武百

献貞王后

1031年) 夫:景宗(955年 - 981年) 内縁の夫:王郁(? - 997年) 長男:顕宗(980年 - 1009年) ^ 《현화사비》 황비(皇妣)이신 효숙인혜왕태후께서는 대종대왕의 따님이고 성종대왕(960년생)의 둘째 누님이셨습니다. 千秋太后 - (2009年、KBS2)演:パク・ウンビン→シネ

貞熹王后

。儒教中心の朝廷で女が直接表立つことが好まれなかったため、玉座の後ろに簾を掛け、朝鮮で初めて「垂簾聴政」を行った。一方、仁粋大妃は桃源君と自身の長男 月山大君や睿宗の次男 斉安大君に要職を与え彼らを宥めた。 夫の意思を継いで朝鮮の国力を強化した慈聖大王大妃は、1476年、成宗の親政開始に伴い摂政を退き、1483年、薨去。

神貞王后

神貞王后(しんていおうこう、シンチョンワンフチョシ、신정왕후 조씨、嘉慶13年12月6日(1809年1月21日) - 光緒16年4月17日(1890年6月4日))は、第24代朝鮮王憲宗の実母。孝明世子の正室。 嘉慶24年(1819年)、純祖の王世子だった孝明世子と結婚し、世子嬪になった。

孝貞王皇后

王皇后(おうこうごう)は、明の成化帝の2人目の皇后。孝貞純皇后(こうていじゅんこうごう)と諡された。 応天府上元県の人。庶民の王鎮の娘として生まれる。天順8年(1464年)、英宗に選抜されて、太子朱見深(後の成化帝)の準側室となった。 成化帝が即位した翌月、最初の皇后呉氏は、側室万氏(後に皇貴妃とな

荘和王后

瞻である。呉瞻は新羅で2男1女を授かったが、中国に帰国した。しかし、2人の男子の中の2番目の息子呉膺は年が幼く、中国に帰国することができずにそのまま新羅に残る。その末裔で羅州の豪族だった多憐君が王建の高麗建国を手助けする。そして、その多憐君の娘が荘和王后である。 祖父:呉富伅 父:多憐君呉禧

王后

皇后。 きさき。

王貞

となった。後に秀才に挙げられて、県尉に任じられたが、勤めを好まず、病と称して家にこもった。 煬帝が即位すると、江都に駐屯する斉王楊暕に召し出されて、客礼で待遇された。『文集』を編んで楊暕に献上して賞賛を受けた。また「江都賦」を献上して10万貫の銭を賜った。まもなく病が重くなって郷里に帰り、家で死去した。

貞和

北朝の年号(1345.10.21-1350.2.27)。 康永の後, 観応の前。 光明(コウミヨウ)・崇光(スコウ)天皇の代。

貞和

⇒ じょうわ(貞和)

貞明皇后

1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。

純貞孝皇后

純貞孝皇后尹氏(じゅんていこうこうごう いんし、スンジョンヒョファンフ ユンシ)は、大韓帝国の第2代(最後の)皇帝・純宗の2番目の妃。本貫は海平尹氏。 尹沢栄の娘として京畿道楊根郡に生まれる、本名は曾順(そじゅん、ジュンスン、朝鮮語: 증순)。光武8年(1904年)に当時皇太子妃だった閔氏が病気で

元貞張皇后

元貞皇后(げんていこうごう、? - 904年)は、唐末の人物で、後梁の太祖朱晃(朱全忠)の妻(即位前没)。姓は張。末帝朱友貞の母であり、その即位後に皇后に追尊された。賢婦人として知られている。 宋州碭山県渠亭里の人。父は富豪の張蕤。初め、龍元寺へのお礼参りの際、当時小作農であった朱温(後の朱全忠)は張氏と偶然に出会い

貞懿皇后 (金)

天会13年(1135年)に夫が亡くなると、再婚を拒否し、出家した。通慧円明大師と号し、紫衣を賜って東京(遼陽府)に帰った。東京では清安禅寺を建て、垂慶寺を営んで住んだ。正隆6年(1161年)5月、入寂した。同年に世宗が即位すると、「貞懿皇后」と贈号し、仏塔を建立して供養が行われた。 『金史』 『通慧円明大師塔銘』

貞定王

貞定王(ていていおう)は、周朝の第28代王。元王の子。 子は姫去疾(哀王)、姫叔襲(思王)、姫嵬(考王)、姫掲(温叔、桓公)ら。 表示 編集

王貞治

割打者になるにはどうしても二本足打法を完成させなければいけない」とも考えていた。王は「二本足でしっくりしなかったことで腹が固まった。私には一本足しかない」と思い、川上にもやはり一本足でいきますと伝え、それ以後は川上監督から何も言われなくなったという。 後年に、この3か月の間に、自分には一本足打法が一