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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

躬行

[きゅうこう]
自分から実際に行うこと。
「~実践」「信ずる所のものを~して/福翁百話(諭吉)」

คำที่เกี่ยวข้อง

匪躬

〔「匪」は「非」に同じ〕 わが身を顧みないこと。 → 蹇蹇匪躬

郭躬

斬に処すよう尚書が上奏したが、郭躬は罰金で済ませるように勧めて、明帝に聞き入れられた。郭躬は廷尉正に転じたが、法に触れて免官された。 後に3回転任して、86年(元和3年)に廷尉に任じられた。郭躬の裁きは寛容公平であり、41の事案で重罪を軽微な罪に

正躬王

て清廉でおおらかであるとして賞賛され、国内は粛然とし民衆は敢えて欺くようなことはなかったという。 承和7年(840年)参議として公卿に列す。承和9年(842年)従四位上に昇叙して左大弁を兼ねる。同年7月に発生した承和の変では右大弁・和気真綱とともに橘逸勢と伴健岑に対して謀反の訊問や、皇太子を廃された

久原躬弦

香族化合物の置換基の反応性に関連してパラブロモトルエンの研究をしている。このほか、フタルイミドの合成や、ニトロメタキシレンへの酸化剤作用、アミドトルイル酸の変換などの研究を行なった。 帰国後、東京大学では塩化フタリルの構造の同定や、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンのアンモニア成分検定器に

石井忠躬

10歳のとき、蓮池藩の世襲家老をつとめる石井玄蕃清慎の婿養子となった。石井家は、佐賀藩祖鍋島直茂の正室で、初代藩主勝茂の生母である陽泰院の実家で、本藩でも「藩祖以来の外戚」として殊遇を享けた一族であった。養父の玄蕃清慎は、本藩初代藩主勝茂の従兄石井修理亮茂成の9代目の当主であった。 石井家の第10代当主として家督と家禄(900石

佐竹義躬

、将軍徳川家治に拝謁する。天明元年(1781年)、光格天皇即位式典の祝賀使を務める。天明8年(1789年)、藩主佐竹義和の将軍徳川家斉への御目見の介添えを務める。寛政5年(1793年)、郷校弘道書院を開設する。寛政11年(1799年)、隠居して家督を嫡男義文に譲る。寛政12年(1800年)死去、享年52。

前田直躬

ると、この暗殺未遂事件の黒幕ないし共犯者であるとも言われる。 こうした反面、多数の著作を残すなど教養高く、河合見風らの文人・学者との交流もある文人でもあった。著作には格調高いものばかりでなく、蒸し羊羹の製法をまとめた書などというものもあり、調理法が詳細に紹介されている。墓所は野田山墓地。 表示 編集

真辺正躬

1845年7月13日(弘化2年6月9日)、江戸への御使者を仰せ付けられて差立て、10月4日(旧暦9月4日)下着した。 1846年3月15日(弘化3年2月18日)、御馬廻組頭を差免れ役領知を除き、御馬廻仰せ付けられる。 1847年7月10日(弘化4年5月28日)、異国船御手当

藤原実躬

生母不明の子女 男子:公躬 男子:公順 ^ 建長4年から『公卿補任』にその名が見えない。 ^ 『尊卑分脈』中御門為方の項では為方の母は公雅の女とあり、為方の兄弟である為俊、経守は為方の同母弟とある。 ^ 明義門院当年御給 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)

若竹笛躬

若竹 笛躬(わかたけ ふえみ、生没年不詳)は、江戸時代中期の浄瑠璃作者。 人形の方では若竹藤九郎と名乗り、宝暦期(1751 - 64)にすでに「当流の達人」「発明無類」と評される大立者で、明和3年(1766年)頃まで活躍。難波三蔵の門下。「岸姫松轡鑑」「摂州合邦辻」「伊達娘恋緋鹿子」ほか多数の作者連

遅塚忠躬

『史学概論』(東京大学出版会 2010年) 『フランス革命を生きた「テロリスト」ルカルパンティエの生涯』(NHKブックス 2011年) (近藤和彦)『過ぎ去ろうとしない近代――ヨーロッパ再考』(山川出版社 1993年) (松本彰・立石博高)『フランス革命とヨーロッパ近代』(同文舘出版 1996年)

栗田直躬

一に依頼されて収集した陶器などの骨董品が「會津八一コレクション」の一部となっている。 親族に、『大日本史』を編纂した国学者・歴史学者の栗田寛、『水戸文籍考』、『荘園志料』を著した歴史学者の清水正健がいる。 『中国上代思想の研究』岩波書店、1949年。津田博士の序文を付す。 『小枝の箸』(歌集)私家版、1970年。

桜井由躬雄

旧蔵書2112点は東京大学図書館に「桜井由躬雄文庫」として納められている。 『ベトナム村落の形成――村落共有田=コンディエン制の史的展開』創文社 1987年 『ハノイの憂鬱』めこん 1989年 『緑色の野帖――東南アジアの歴史を歩く』めこん 1997年 『米に生きる人々――太陽のはげまし、森と水のやさしさ』集英社

凡河内躬恒

けり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話がある。 『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と言ったという。 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる

正親町三条実躬

1287年(弘安10年)、幕府が後宇多天皇から熈仁親王への皇位交代を申し入れて来た際、その横暴を「末代作法口惜事也」(末代の作法、口惜しき事なり)と歎じたことがよく知られている。 父:正親町三条公貫 母:藤原為経の娘 妻:聖海の娘 男子:正親町三条公秀(1285-1364) 女子:光明天皇後宮 養子:正親町三条公躬(正応3(1290)年

行

※一※ (名) (1)文字などの並び。 普通, 縦書きの場合の縦の並び, 横書きの場合の横の並びをいう。 「~を改めて書きはじめる」「~と~の間に書き加える」 (2)〔仏〕 〔梵 saṃskāra〕 (ア)五蘊(ゴウン)の一。 初めは心の意志的働きをさしたが, のちには存在物一般をさす。 「諸~無常」(イ)十二因縁の一。 あらゆるおこないのこと。 また, 現世の結果を生む原因となった過去世のおこない。 (3)〔仏〕 〔梵 caryā〕 宗教上の実践。 悟りを開くための修行・行法。 (4)〔仏〕 〔梵 gamana〕 進みゆくこと。 歩くこと。 行住坐臥(ギヨウジユウザガ)の四威儀の行。 (5)漢字の書体の一。 行書。 「真・~・草」 (6)律令制で, 位に相当していない低い官についている場合に, 位と官との間に書く語。 ⇔ 守 「正三位兼~左近衛大将/宇津保(初秋)」 → 位署 (7)〔数〕 行列または行列式で, 横の並びをいう。 ※二※ (接尾) 助数詞。 文字などの縦または横の並びの数を数えるのに用いる。 「五~削る」

行

〔「下(クダ)り」と同源〕 ※一※ (名) (1)文章の縦(タテ)の行(ギヨウ)。 「~の程, はじざまにすぢかひて/源氏(常夏)」 (2)(着物の)縦の線。 「手本(タモト)の~まよひ来にけり/万葉 3453」 ※二※ (接尾) 助数詞。 文章の行(ギヨウ)を数えるのに用いる。 「ただ三~ばかりに, 文字ずくなにこのましくぞ書き給へる/源氏(梅枝)」

行

(1)行くこと。 特に, 旅行などで歩きまわること。 「~を共にする」 (2)隋唐時代, 都市の特定地区(市)に限って営業を許された同業種から成る商店街。 (3)唐の中期以後, 同業者が営業独占と互助の目的で作った商人組合。 (4)〔もと楽府(ガフ)の楽曲のこと〕 古詩の一体。 唐代以降は, 多く叙事詩。 「琵琶~」

行く行く

〔動詞「ゆく」を重ねた語〕 (1)将来。 行く末。 「~大物になるだろう」「~はここに住もう」 (2)行きながら。 「中海に入り, ~御倉半島の断崖を仰ぐ/十和田湖(桂月)」