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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

鍋島元茂

剣の腕に優れた達人で、柳生宗矩から印可書を一番に受けたと言われている。木村友重と共に徳川家光の打太刀を務めた。柳生宗矩とは30年にわたる道縁で、死の直前に秘巻「兵法家伝書」を与えられている。承応3年(1654年)に死去し、跡を長男の直能が継いだ。 父母 鍋島勝茂(父) 岩 ー 小西三右衛門の娘、側室(母)

คำที่เกี่ยวข้อง

鍋島勝茂

青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」が所蔵されている。勝茂が島原の乱で着用したと伝わり、勝茂末子の神代直長が拝領し、その子孫の鍋島内記家に伝来した。青漆とは、漆に藍や石黄を混ぜて発色させる技法で、江戸時代中後期に考案されたとされる。なお青漆という名ではあるものの、実際の色は青ではなく緑である。

鍋島茂順

文化5年(1808年)7月、当時請役(藩務を総理する執政職)の地位にあった茂順は、諫早茂図、横岳茂親、倉町敬文と共に、側役を重用する9代藩主・鍋島斉直に対し、側役は藩主の身辺世話役であって藩政の大旨が分かっておらず、そのような側役を藩政に重用することはむしろ藩政への妨げであるとの申

鍋島茂義

役に就任。当時、佐賀藩の財政状況は極めて厳しく佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の側役有田権之丞が領内に例外なく人頭税を課そうとしたが、茂義は「人頭税を課すことは政治の要諦にあらず」と反対し、同年12月、請役就任1ヶ月にして請役を辞職する。 文政6年(1823年)8月、再び請役

鍋島茂昭

め登城できないと申し出る一方、同年11月に参勤交代で江戸に出府した宗教には老中の御内意により登城を差し控えるようにと伝え、家督を宗教の弟・直鄰に継がせようとした。 茂昭はこの動きを察知し、同年8月江戸に上り、神代茂英らと共に宗教隠居の画策を阻止しようと行動した。結果、寛延2年(1749年)正月に宗

鍋島重茂

偏諱と鍋島家の通字により重茂に改名する。 明和7年(1770年)に38歳で死去した。嗣子が無かったため、実弟で養子の治茂が跡を継いだ。法名は大弘院殿道聡良廓大居士。 父:鍋島宗茂(1687-1755) 母:貞姫、貞樹院 - 久世通夏の娘 正室:霊松院(1739-1761)源姫、惇子 - 伊達宗村の長女

鍋島茂綱

の馬を与えた。しかし、本来西軍に属するべき所を期日に遅れて家康に東軍所属と誤解され褒美を賜ったために、「怪我の功名を成した」と謡われ、日高は結局平戸に退去せざるを得なくなったとの逸話がある。同年10月、西軍に与していた鍋島直茂が家康への帰順の

鍋島治茂

鍋島直宜の養子 側室:北御門氏 女子:悌操院 - 鍋島直宜正室 側室:絹 - 増田武堯の娘 四男:鍋島直道(1789-1820) - 鍋島直温の養子 女子:於變 - 鍋島直章室 側室:コノ - 村松武明の養女、横山景豊の娘 七男:鍋島直与(1798-1864) - 神代直興、鍋島直温の養子 女子:中院通繁室

鍋島直茂

先陣として同じ攻め口で戦っている最中の広橋信了へ伝令を遣わし、我らが攻めるのに支障が出ているから早く攻め落とすよう伝え、これに立腹した広橋を討ち死に追いやっている。また、天正5年(1577年)の大村純忠攻めの際は、龍造寺軍には「先陣の敗は二陣の不覚、先陣

鍋島綱茂

1706年)に56歳で死去した。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。男子が無かったため、実弟・吉茂が養子として跡を継いだ。 「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が

鍋島光茂

松平光通の養女、中院通純の娘 次男:鍋島吉茂(1664-1730) - 4代藩主。初め矩茂。勝茂の十一男・神代直長の婿養子となり神代直利を名乗るが、綱茂の養子となるため実家に戻る) 側室:廉 四男:多久茂文(1670-1711) - 多久茂矩の養子 側室:振(霊寿院) - 鍋島直朝の養女、執行宗全の娘 十四男:鍋島辰茂

鍋島茂里

このとき、父信忠は茂里の実家への復籍を直茂に申し入れるが、直茂には「勝茂の後見役として鍋島の家に留まってほしい」との強い希望があり、信忠の申し入れに首肯しなかった。茂里は、その後の生涯を鍋島姓を称する一方で、養父直茂は書状では茂里を指して、鍋島姓以外にも、石井平五郎と書いているものも見られる。

鍋島茂和

家督相続時期は明らかではないが、慶安5年(1652年)に集大成された「鳥ノ子御帳」によれば、多久茂辰、諫早茂真と共に佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に任じられており、この頃までには家督を相続していたものと考えられる。 なお、正保3年(1646年)、一子

鍋島茂真

文政5年(1822年)、須古鍋島家12代当主・鍋島茂臣の養子に内定し、文政8年(1825年)に佐賀城東御門元鷹屋屋敷を拝領する。特に佐賀藩主の花杏葉紋使用を許可され、同年に家督を継ぐ。 天保元年(1830年)9月に請役差次に就任する。天保6年(1835年)5月の佐賀城二の丸焼失の後、請役所当役(

鍋島吉茂

寛文4年(1664年)、2代藩主・鍋島光茂の次男として誕生した。初名は矩茂(のりしげ)。 初め大叔父・神代直長の婿養子となって神代家を相続し、直利に改名した。神代氏は元々筑後国にて大宮司を務めたという名族で、神代勝利の嫡男・勝良(長良)が鍋島直茂の弟・小河信俊(おがわ のぶとし)の子・家良(いえよし)を養子として迎えて以来

鍋島茂明

(1760年)9月、6代藩主・鍋島宗教の参勤交代に従い江戸に行く。後に請役所勝手方心遣(請役及び勝手方の相談役)に就任し、明和7年(1770年)に7代藩主・鍋島重茂の死を受けて治茂が8代藩主となった後も、引き続き請役所勝手方心遣に任命されている。 明和8年(1771年)1月に死去、同年3月、嫡子・茂順が家督を相続した。

鍋島茂周

寛永3年(1626年)、父・信昭の隠居により家督を相続する。この頃に佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂より鍋島姓を賜る。寛永14年(1637年)、島原の乱に佐賀藩の軍勢のうち800人を率いて参加している。 慶安5年6月20日(1652年7月25日)、死去。享年63。 吉岡達太郎『須古村片影』1980年

鍋島茂紀

て龍造寺四家(諫早、武雄、多久、須古)が交代で独占していた請役(藩務を総理する執政職)の一部に鍋島一門(白石家、横岳家)を任命し、龍造寺一門の力を減じようという動きが見られた時期であった。 しかしながら、寛文12年(1672年)になると、請役には茂紀と共に多久茂矩が就任し、龍造寺一門が二人体制で請

鍋島焼

下絵付け(染付)、本焼き、上絵付け(色絵)、上絵の焼き付けなどの工程が分業で行われ、さらに原料の磁土を採掘する者、窯を焚くための薪を供給する者など、多くの人材が関わっていた。色絵(赤絵)の場合、下絵付け(呉須というコバルト質の絵具を用いる。焼きあがると青色に発色する)と上絵付け(下絵

鍋島氏

と政家が短期間で急死。徳川家康により鍋島氏が正式に佐賀藩(高直しで35万7千石)の藩主と認められ、龍造寺氏の大名としての地位を簒奪(さんだつ)する形になった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われた。 鍋島氏は35万7千石の国持大名でありながらその実情は、3支藩(蓮池