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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

鷹司任子

関白鷹司政煕の二十三女で、兄の関白鷹司政通の養女として輿入れした。初名は有君。院号は天親院(てんしんいん)。 文政11年(1828年)11月15日に家祥と納采し、天保2年(1831年)9月15日に江戸城本丸へ入輿。天保12年(1841年)11月6日に西御丸へ移り、11月21日(1842年1月2日)に婚儀が行われて、以後「御簾中様」と呼ばれた。

คำที่เกี่ยวข้อง

鷹司祺子

やすこ、文化8年2月25日(1811年3月19日) - 弘化4年10月13日(1847年11月20日))は、江戸時代後期の仁孝天皇の女御。のち皇太后、女院。女院号は新朔平門院(しんさくへいもんいん)。 関白鷹司政熙の娘。母は井上義胤の娘梅子。准母は権中納言豊岡尚資の娘斐子。異母兄の関白鷹司政通、同母姉の仁孝天皇女御鷹司

鷹司繋子

鷹司 繋子(たかつかさ つなこ、1798年3月17日〈寛政10年2月1日〉- 1823年5月14日〈文政6年4月4日〉)は、第120代天皇・仁孝天皇の女御。死後、贈皇后。女院号は新皇嘉門院(しんこうかもんいん)。 関白鷹司政煕の娘。母は井上義胤の娘梅子。准母は権中納言豊岡尚資の娘斐子。異母兄の関白

鷹司和子

鷹司 和子(たかつかさ かずこ、1929年〈昭和4年〉9月30日 - 1989年〈平成元年〉5月26日)は、日本の元皇族。鷹司平通の妻。勲等は勲一等。 皇籍離脱前の身位は内親王で、皇室典範における敬称は殿下。旧名、和子内親王(かずこないしんのう)。諱は和子、御称号は孝宮。お印は白菊であった。伊勢神宮祭主(1974年

鷹司房子

しかし、入内後も天皇と房子の関係が上手くいなかった。そのため、天皇の寵愛を受けていた中納言典侍(小倉実起の娘)が房子に嫉妬しているためだという風説が流れ、折しも中納言典侍が皇子を生んでしまう。後水尾院や江戸幕府は房子が生んだ皇子に皇位を継がせる方針であったため、嫉妬問題と懐妊を口実に中

鷹司景子

景子(たかつかさ ひろこ、文化10年11月24日(1814年1月15日) - 1892年(明治25年)9月28日)は、日本の皇族。伏見宮邦家親王の御息所。邦家親王妃景子(くにいえしんのうひ ひろこ)。東山天皇の玄孫にあたる。 関白鷹司政煕(東山天皇曾孫)の女子で、姉妹には閑院宮孝仁親王御息所の吉

鷹司信子

川家宣の正室・近衛熙子は再従妹にあたる。 鷹司教平の長女として京都で生れた。通称は小石君。 寛文3年(1663年)10月15日、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉との縁組が発表され、翌4年 (1664年)9月に東福門院の女房が付き従って下向し、18日に神田御殿にて婚礼を挙げた

鷹司孝子

ができない。しかも、弟の鷹司信平(松平信平)が孝子を頼って江戸へ来た時には、家光は信平を歓迎し俸禄を与えて召し抱えた。 さらに、家光が死去する際、形見分けとして孝子へ与えられたのは、金5000両であった(「江戸幕府日記」)。将軍正妻の役割を果たさなかったものの、家光死後のその生活はこれによって確保できたと言える。

鷹司家

鷹司家(たかつかさけ)は、藤原北家嫡流近衛家の庶流で公家の五摂家のひとつ、華族の公爵家のひとつである。家紋は鷹司牡丹。 鎌倉時代中頃、藤原北家嫡流の近衛家実の四男・兼平が祖。建長4年(1252年)に近衛兼平が摂政・藤氏長者宣下を賜り、近衛家所有の荘園を分割した形で継承し、さらに家実の娘、鷹司院長子

主鷹司

主鷹司(しゅようし)は、律令制において兵部省に属した機関。訓はたかつかさ・たかのつかさなど。 主鷹司は放鷹司とも書き、鷹や猟犬を飼育・調教し、鷹狩などの狩猟を取り仕切った。司の中では最も格が低く四等官は長官と主典しか置かれていない。鷹の実際の飼育は品部の鷹戸が行う。 「不殺生」といった仏教思想により、721年、および道鏡政権下

任子

隋から唐の時代には300年を超える試行期間を経て個人の能力を試験によって評価する科挙制度の体制が作られつつあったが、唐代になっても要途の官僚を膏梁や世冑と呼ばれる世襲の特権階級が占めていた。 唐中期から五代にかけての社会変革を経て、科挙制を軸とする官僚制が成立した宋の時代になっても恩蔭の制度は

鷹司政煕

いた左大臣の二条治孝の関白就任を阻止する意図もあった。その結果、治孝の後ろ盾であった後桜町院が崩御するまで政煕は関白に留まることになった。 子女 鷹司政通 依子(東本願寺法主達如室) 宝台院 隆子(加賀藩主前田斉広室) 真龍院 吉子(閑院宮孝仁親王妃) 微妙覚院 繋子(仁孝天皇女御・贈皇后) 新皇嘉門院

鷹司信輔

公爵で陸軍少将鷹司熙通(のち大正天皇侍従長)の長子として、東京市麹町区に生まれる。幼時は昆虫採集を好んだが、やがて鳥類に関心が移る。 1901年に高師附属小、1906年に高師附属中を卒業後、学習院高等科に進み、鳥類学を志すようになる。1911年、東京帝国大学理科大学動物学科に

鷹司信房

二条家は元々武家と距離が近く、先の足利将軍家や後の徳川将軍家とも密接であり、信房の次兄の二条昭実は天正3年(1575年)に信長の養女を娶っている。この縁もあり、信房を擁して鷹司家を再興する流れになったと考えられる。生家を継いだ昭実

鷹司基忠

正月20日:任大臣の兼宣旨を蒙る。 正月26日:内大臣に任ず。 正月27日:大将如元。 7月13日:大将を辞す。 7月16日:随身・兵仗を賜う。 弘長3年(1263年)12月19日:兵仗を辞す。 文永2年(1265年)10月5日:右大臣に任ず。 文永5年(1268年) 正月7日:従一位に叙す。 8月20日:皇太子傅に補す。

鷹司平通

鷹司 平通(たかつかさ としみち、1923年(大正12年)8月26日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は、日本の鉄道研究家。日本交通公社交通博物館調査役。元交通博物館館長。五摂家の一つだった鷹司家の27代目当主。妻は昭和天皇の第三皇女・鷹司和子(孝宮和子内親王)。 東京都出身。公爵鷹司

鷹司輔平

大僧正 [脚注の使い方] ^ 西園寺実輔は一条兼香の実兄であるが兼香の誕生前に既に死去している。養子の候補としては具体的に孫にあたる寿季(後の橋本実理)の名前まで上っていた(長坂、2018年、P30-34.)。 ^ 『兼香公記別記』七(寛保3年7月27日条)によると、この時には兼香と天皇の間で世襲

鷹司尚武

鷹司 尚武(たかつかさ なおたけ、1945年〈昭和20年〉6月9日 - )は、五摂家の一つだった鷹司家の第28代当主。伊勢神宮大宮司、神宮司庁代表役員を経て、神社本庁統理。日本電気通信システム株式会社(NEC通信システム)社長を務めた。旧姓名は松平尚武。養母の鷹司和子

鷹司冬教

12月21日(1312年1月30日):権大納言に任ず。 12月23日(1312年2月1日):勅授帯剣。 応長2年(1312年)3月3日:正二位に叙す。 正和2年(1313年)7月7日:服暇す。 元応2年(1320年) 4月12日:左近衛大将を兼ぬ。 5月14日:左馬寮御監に補す。 元亨2年(1322年) 8月11日:内大臣に任ず。 8月12日:左大将還宣旨を下す。

鷹司兼平

る。永仁2年(1294年)に智恵光院を開山するが、間もなく薨去。兼平は前後23年の長きにわたって摂関の任にあった。 能書家としても著名。日記に『称念院関白記(兼平公記)』、有職故実書に『照念院殿装束抄』がある。勅撰和歌集には4首入集している。 後深草院二条が綴った『とはずがたり』に登場する「近衛大