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代明親王

藤原伊尹室、花山天皇外祖母、准三宮 女子:荘子女王(930-1008) - 村上天皇女御(具平親王母) 三女:厳子女王 - 藤原頼忠室(藤原公任ほか母) 生母不詳の子女 男子:源遠光 ^ a b c 『日本紀略』 ^ 『本朝皇胤紹運録』 ^ 『日本紀略』承平6年3月18日条 ^ 『大和物語』第九十四段 ^ 『貞信公記』 ^ 『御産部類記』1-11

Пов'язані слова

重明親王

日輪が家に入り金鳳が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に藤原兼家に伝領された東三条殿) 。 ある時、蕃客(渤海の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に黒貂の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい(『江家次第』)。

兼明親王

う。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された漢詩「菟裘賦(ときゅうふ)」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を痛烈に非難している。 寛和2年(986年)中務卿を辞し、その後は嵯峨に隠棲した。同年に嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊

保明親王

妃:藤原仁善子(本院御息所)(?-946) - 藤原時平の娘(一説に藤原定方の娘?) 王子:慶頼王(921-925) 王女:煕子女王(?-950) - 朱雀天皇女御 妃:藤原貴子(中将御息所)(904-962) - 藤原忠平の長女 妃:参議藤原玄上の娘 - 後に藤原敦忠、藤原文範と再婚 表示 編集 表示 編集

久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府第8代征夷大将軍。 第89代後深草天皇の第六皇子。正応2年(1289年)9月、従兄の前将軍・惟康親王が京に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した。当時の皇室は2年前に久明の兄にあたる伏見天皇が即位、さらに2年後には甥の胤仁親王

敦明親王

冠り物がなく髻が露わになっていた父帝に対して自らの髻を気にせず烏帽子を譲った(その後、敦明は誰かの烏帽子を徴して被った)逸話があることや、源政職への辱めも妹が債権の返済がなされず困っていたことから、債務者を懲らしめたものである、として親兄弟には深い愛情を持っていたとされる。

式明親王

康保3年(966年)12月17日:薨去(中務卿三品) 注記のないものは『本朝皇胤紹運録』による。 父:醍醐天皇 母:源和子(光孝天皇の皇女) 妻:藤原玄上の娘 長男:源親頼 生母不詳の子女 次男:親繁王 ^ a b 『扶桑略記』天徳5年5月10日条。『古事談』4,勇士 ^ a b 『慶延記』 ^ a b c 『九暦』 宮崎康充編『国司補任

克明親王

克明親王(よしあきら/かつあきら しんのう)は、平安時代前期の皇族。初名は将順(まさのぶ)。醍醐天皇の第一皇子。官位は三品・兵部卿。 延喜4年(904年)親王宣下。延喜9年(909年)8月に父・醍醐天皇に対面する。延喜10年(910年)正月には清涼殿東庭において拝儛をしているのが見える。延喜11年(

有明親王

女子:能子女王(?-994) - 藤原兼通室(別名は昭子ともいわれ、元平親王(陽成天皇の皇子)の娘とする説もある) 女子:馨子女王 女子:藤原公季室 ^ 『御遊抄』延喜21年11月24日条 ^ a b c d 『日本紀略』 ^ 『母后代々御賀記』 ^ a b 『九暦』 ^ 『大嘗会御禊部類記』 ^ 『国司補任』

明日香親王

になったという。弘仁12年(821年)三品に叙せられる。 天長8年(831年)上野太守に任ぜられる。承和元年(834年)2月13日薨去。 生まれつき質朴な性格で、浮華を良しとしなかった。弘仁年間は奢侈な風潮で、王公貴人は鮮やかな衣服を非常に好んだが、明日香親王だけは夏になっても朝服を何度も洗濯して使

親王

(1)天皇の子供を敬っていう語。 皇子・皇女。 (2)(父である神に対して)キリストを敬っていう語。 「神の~」「救いの~」 (3)親王。 親王宣下を受けた天皇の皇子。 「仁和のみかど, ~におましましける時に/古今(春上)」 (4)他人を敬ってその子をいう語。 「主を殺さぬ事, ~の君ぞしらせ給へる/読本・春雨(捨石丸)」

親王

〔「しんおう」の連声〕 皇族男子の身位の一。 律令制では, 天皇の兄弟・皇子をいったが, 淳仁天皇(在位 758-764)以後は親王宣下のあったもののみに限られた。 旧皇室典範では, 皇子から皇玄孫にわたる皇族男子をいった。 現制度では, 嫡出の皇男子および嫡男系嫡出の皇孫の男子をいう。 ⇔ 内親王

代親

カトリック教会やギリシャ正教会で, 洗礼や堅信礼に立ち会い, 受洗者(代子)が神に対してする約束の保証者となって, 以後の宗教教育に責任をもつ者。 代父母。

明王

大日如来の意を受けて, 導きがたい人々を強力に仏の教えに導いて救済する諸尊。 一般に忿怒(フンヌ)の相を表す。 愛染明王・不動明王など。

明王

賢明な君主。 明君。

王明

王 明(おう めい、1904年4月9日 - 1974年3月27日)は、中華民国の政治家。一時期中国共産党の最高指導権を掌握したが、毛沢東との権力闘争に敗北。中華人民共和国成立から程なくしてモスクワに事実上亡命した。本名は陳 紹禹(ちん しょうう)。 武昌大学在学中に青年共産同盟に加入し、1925年

親王家

〔古く「しんのうげ」か〕 中世以後, 親王の称号を許された皇族の家筋。 江戸時代には, 伏見宮・桂宮・有栖川宮(アリスガワノミヤ)・閑院宮の四家があった。

法親王

守覚法親王 覚行法親王 尊覚法親王 覚恵法親王 公弁法親王 真寂法親王 性円法親王 尊円法親王 覚雲法親王 慈道法親王 守澄法親王 澄覚法親王 尊朝法親王 覚法法親王 慈胤法親王 尭延法親王 最雲法親王 覚深法親王 覚快法親王 静恵法親王 聖雲法親王 尭恕法親王 尊性法親王 円恵法親王 道法法親王 尊純法親王

内親王

(ひめみこ)姫宮(ひめみや)などがある。 また古来から、第一皇女を女一宮(おんないちみや)、その順に女二宮、女三宮と称す。 明治時代に入り、皇室典範成案が起草されるにあたり、その第35条にて従来の皇女に留まらず、親王妃にも内親王、王妃を女王と規定する条文の策定が検討された。しかし、有栖川宮熾仁親王が

親王妃

親王・内親王・王・女王の身位が「憲仁親王」のように名の後に付され呼称の一部と見なされるのに対し、親王妃及び王妃は「憲仁親王妃久子」のように用いられる。親王・内親王の表記にならって「久子親王妃」のような逆順の表記をすることは、公式表記の観点からは誤用となる。 親王妃は夫たる親王が皇位を継承すると、皇后となる。