JLPT N1 – Reading Exercise 120
現代の都市計画や社会設計の場においては、脳の働きでいうところの「論理的整合性」の個人差は極めて少ない。例えば、駅の改札からホームまでの最短ルートを設計すれば、ほとんどの人はそこを「正しい道」として認識し、利用する。利便性を追求した設計に対し、ある人は「便利だ」と感じ、別の人は「不便だ」と真逆の結論を出すという事態は、設計思想が共有されている限り、そう頻繁には起こり得ない。同様に、信号機の色の意味や、レジでの待ち列の並び方など、効率を重んじるシステムの情報処理において、個人の解釈のばらつきは最小限に抑えられている。
その一方で、ある空間を「心地よい」と感じたり、あるいは「美しい」と感じたりする感性の反応においては、個人によるばらつきが極めて大きくなるのが通例である。同じ公園のベンチを前にしても、すべての人がそこを憩いの場だと感じたり、逆にすべての人がそこを無意味な場所だと思うとは限らない。ある人が静寂を求めて愛する場所を、別の人が孤独すぎて耐えられないと思うのはごく普通のことである。意味の解釈においては、脳の反応に大きな個人差が見られるのである。
そもそも、都市における「無駄」の働きとは何であろうか。ひと昔前までは、無駄な空き地や目的のない広場は、都市の機能性を阻害する類型的な「失敗」であると考えられてきた。経済合理性が担っている都市の成長が環境の変化に応じて緻密な開発を行うのに対して、古い街並みに残る「路地裏」や「名もなき空地」は、生産性のない、取り壊されるべき対象と思われていたのである。
しかし、近年の環境心理学や都市論の進展により、こうした「余白」は、むしろ人間が精神的な平衡を保つための不可欠な適応戦略であることが明らかになってきた。効率だけでは割り切れない、目的の見えない生の状況において、それでも人間が自分を取り戻し、思考を巡らせることを支えるためのバッファ(緩衝材)として、無駄な空間は存在していると考えられるに至ったのである。
無駄な空間が不確実な都市生活に対する適応であると考えると、その場所に対する反応において個人差が生じるのは自然なことである。
変化の激しい現代社会の下では、心の安らぎを得るための「正解」の場所は一つとは限らないからである。
さまざまな人々が異なる場所に価値を見出し、都市の中に多様な「居場所」が点在しているほうが、人間という集団全体としては、むしろ変化に強い適応的な社会といえる。危機的なストレス状況下においては、たとえ、ある場所で癒やしを得られなかった人がいたとしても、別の「無駄な空間」に救われる人がいれば、社会全体の精神的崩壊を免れることができるからである。全体が同じ「効率的な空間」だけに依存してしまっては、想定外の事態や価値観の転換に対して非常に脆弱になってしまう。
他人が、自分には理解できない場所に執着したり、異なる価値観を見せることを許容することの倫理的基礎は、まさにこの点にある。他人が自分と異なる風景に意味を見出していることに違和感を覚えるのは自然な心理だが、それに縛られてはいけない。自他の価値観の差異に対して許容的であることが、多様な個性が共存する高度な生命哲学上の原理にかなっているのである。