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單字詳情

三条実治

富の子。官位は従一位・左大臣。三条家22代当主。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代に亘り仕えた。号は暁心院観照。 三条公富の子として誕生。初名は季房・実通。 明暦元年(1655年)、叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)に

相關單字

三条西実条

五男:公紀(堀尾泰長)又は堀尾右京- 子に清水谷実業、押小路公音 家女房の子女 嫡男:三条西公勝 二男武者小路公種 - 武者小路家の祖 四男:西川(芳心院) 六男:光深(修南院大和尚) 女子:最上義智後室 女子:浄心院 - 堀親昌後室 女子:清雲院(荒尾但馬室) 女子:桂昌院

三条実親

を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習うなど、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去。享年69。 ※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。 建久10年(1199年)正月15日:従五位下に叙す(女御琮子給)。

三条実重

権中納言に任ぜられる。 弘安8年(1285年)2月20日、帯剣を勅授される。 正応元年(1288年)7月11日、権大納言に任ぜられるが翌日12日、母の喪に服す。 正応4年(1291年)3月25日、右近衛大将を兼ねる。 正応5年(1292年)5月15日、右大将を止められるが、同年閏6月16日には左近衛

三条実教

実教の死後、三条家はいったん断絶し、永禄12年(1569年)に至って正親町三条家の分家三条西家の当主・実枝の子である実綱が再興した。 三条家の当主は、実行→公教→実房→公房→…と「公」と「実」の通字を1代ごとに交互に付けていく慣行であり、実教の次の当主が実綱を名乗ったことは、実教

三条実房

90番 花留客といへる心をよみ侍りける 散りかかる花のにしきは着たれども帰らんことぞ忘られにける 140番 暮見卯花といへる心をよみ侍りける 夕月夜ほのめく影も卯の花の咲けるわたりはさやけかりけり 362番 清見潟関にとまらで行く船はあらしのさそふ木の葉なりけり 458番 跡もたえしをりも雪にうづもれて帰る山路にまどひぬるかな

三条実忠

康永4年(1345年)9月8日、内大臣を辞退した。 貞和2年(1346年)1月6日、従一位に叙せられる。 貞和3年(1347年)1月4日、虚労により薨去。 父:三条実親(1259-1329) 母:家女房 養父:三条公茂(1284-1324) 妻:左中将藤原公直の娘 男子:三条公忠(1324-1384)

三条実美

また政策には通じておらず、無定見であったと指摘している。「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条公はまったく無定見であらせられた。今日ある者から意見を申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見を申し上げると、やはりまたその気

三条実起

三条 実起(さんじょう さねおき)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。右大臣・三条季晴の子。母は彦根藩主井伊直定の娘・歌智。官位は従一位・右大臣。三条家27代当主。主に桃園天皇(116代)から光格天皇(119代)に亘って朝廷に仕えた。 宝暦7年(1757年)に従五位上に叙爵。その後清華家三条家

三条実春

三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母静子(正親町実正二女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以

三条実量

三条 実量(さんじょう さねかず)は、室町時代前期から中期にかけての公卿。右大臣・三条公冬の子。官位は従一位・左大臣。 永享元年(1429年)以前 - 永享4年3月(1432年4月) 左近衛中将 永享3年(1431年) - 永享4年3月(1432年4月) 越中権守 永享4年3月(1432年4月) -

三条実万

1862年(文久2年) - 贈右大臣 1899年(明治32年) - 9月26日 贈正一位 父:三条公修 母:和子 - 一条輝良の娘 正室:紀子 - 眉寿姫、山内豊策の娘 次男:三条公睦(1828-1854) 三男:三条実美(1837-1891) 五男:河鰭実文(1845-1910) - 河鰭公述養子

三条実行

三条 実行(さんじょう さねゆき)は、平安時代後期の公卿。権大納言・藤原公実の次男。官位は従一位・太政大臣。三条家の始祖。 鳥羽天皇の中宮で崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の異母兄にあたることから、その縁で弟の徳大寺実能と共に崇徳上皇に近侍した。このため近衛天皇国母の美福門院とその一派とは必然

三条西実隆

宮川葉子『三条西実隆と古典学』風間書房、1995年 豊田恵子『コレクション日本歌人選 055 三条西実隆』笠間書院、 2012年 原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1990年) ISBN 406158250X 同書は青空文庫に収録されている。 ^ “【戦国こぼれ話】現在は学者受難の時代

三条西実枝

2015, pp. 224–233, 「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」. ^ 金子 2015, pp. 270–271, 「天正二年~五年の絹衣相論の再検討」. ^ 金子 2015, p. 225, 「織田信長の東大寺正倉院開封と朝廷」. 金子拓『織田信長権力論』吉川弘文館、2015年。ISB

三条西実教

親町実豊・園基福・東園基賢の4名と共に出仕停止の処分を受け、翌日に天皇の取成しで赦免されている(禁闕騒動)。 寛文9年(1669年)2月、天皇の側近の若い公家らが実教と実豊が天皇を蔑ろにしていると讒言を行い、天皇もこれに同調して従兄弟の三室戸誠光・東園基量や側近の難波宗量と共に両名を排除する起請を

三条

平安京の条坊の一。 また, 東西に通ずる大路の名。 三条大路。

三条

新潟県中部, 信濃川(シナノガワ)に臨む市。 江戸時代の金物鍛冶(カジ)に始まる金物工業が発達。 法華宗総本山本成(ホンジヨウ)寺がある。

正親町三条実義

正親町三条 実義(おおぎまちさんじょう さねよし)は、江戸時代後期の公卿。権中納言・正親町三条公則の子。官位は従三位・権中納言。正親町三条家26代。 寛政11年(1799年)叙爵され、以降累進して侍従・右近衛少将・左近衛権中将・参議を経て、文政元年(1818年)には従三位となり公卿に列する。同年に踏

正親町三条実有

正親町三条 実有(おおぎまちさんじょう さねよし)は、安土桃山時代後期から江戸時代前期の公卿。官位は正二位・権大納言。初名は実助(さねすけ)。 文禄3年(1594年)叙爵。その後、侍従・右近衛少将・阿波権介・右近衛中将・蔵人頭をへて、慶長17年(1612年)に参議となり、公卿に列する。その後、権中