JLPT N1 – Reading Exercise 40
現代社会において「多様性の尊重」が声高に叫ばれる一方で、私は「共通善」という概念がほとんど議論されなくなっていることに違和感を覚えてきた。職場や地域の会議で議論を重ねていても、最終的には「それぞれの価値観があるから仕方ない」と結論づけられ、問題の核心が曖昧なまま終わってしまうことが多い。こうした傾向に対し、私は「1」以前から危機感を持っていた。
ある時、環境問題についての討論を学生たちと行った。プラスチックごみの削減やリサイクルの必要性について意見を求めると、誰かが「自分はエコバッグを使うが、使わない人にも事情があるから強制はできない」と発言し、議論が急速に停滞した。私は「2」『個人の自由』という言葉を議論の終着点にしないようにと注意を促したが、学生たちの間に広がる「他者の選択を批判しない」姿勢をどう乗り越えるべきか、答えを見いだせずにいた。
その後、学生たちに「公共空間でのマナー」についてレポートを書かせた。ある学生は、電車内で大声で通話する人に注意できない理由を「自分の価値観を押し付けることになるから」と説明していた。私は「3」公共の利益よりも個人の快適さが優先される社会の危うさを痛感した。
さらに、別の学生は「マナー違反を指摘すること自体がハラスメントになる」と主張した。私は「4」深い無力感に襲われた。公共空間のルールは、個々人の快適さを守るためだけではなく、社会全体の秩序や安全を維持するために存在するはずだ。
しかし、学生たちは「自分と他人の価値観は違うから」と、社会的合意の形成を避けているように見えた。
なぜ学生たちは、個人の自由と公共の利益の対立構造に固執し、社会全体の課題として問題を捉えようとしないのか。レポートを読み進めるうちに、その理由が見えてきた。やはり「多様性の尊重」への過度な傾倒である。
あらゆる価値観が等価であるならば、公共の場でのマナー違反も「一つの個人的選択」として容認されてしまい、社会全体のルールや善悪の基準を議論することが困難になる。社会的な課題に対し、合意形成を放棄したとき、公共善は単なる「最大公約数的な妥協」に堕してしまう。
せつせつと: 心に強く訴えかけるさま
もどかしい: 思い通りにならず、いらだたしいさま
合点がいく: 理解して納得する