JLPT N1 – Reading Exercise 80
人の記憶というものは、実際には思っているほど正確ではないことが多い。以前、父と昔話をしていてそのことを痛感した経験がある。
たとえばの話。私が父に「小学生のころ、よく一緒に山へ行ったよね」と言うと、父は「いや、お前が山を怖がって行きたがらなかった」と返す。「でも、写真が残っているじゃない」と私が言うと、「あれは親戚の集まりで、山登りではなかった」と父は言う。
こうして文字にしてみると、私たちの記憶はまったく一致していない。お互いに自分の覚えていることだけを主張しているだけである。
私はこの父とよく議論になった。この「(1)勝手な記憶の主張」が続いていくと、最後には決まって父は「昔のことより、今を大事にしろ」と結論づけ、「なぜ思い出話が現在の生き方に結びつくのか」と(2)私が反論し、議論が白熱することになる。この議論もまた、記憶のすり合わせとしては成立していない。そのたびに、「父とは記憶が共有できないのだ」ともどかしく思ったものだった。
しかし、もしかしたら、共有できないと決めつけた私は、記憶というものは「事実を同じように覚えている」はずだと信じていたのかもしれない。その信念どおりに話が進まないことに、苛立っていたのかもしれない。そういえば、「本当に覚えているのか」と、話の途中で何度も問いただしたことを今、思い出した。(3)あの時は、「同じ事実を同じように覚えているのか」と、自分の信じる基準を押しつけていたのだろう。
記憶というものは人によって、鮮明さも意味づけも異なる。もしこれが完全に一致していれば、理屈ぬきで過去を共有でき、誤解や食い違いはまったくなくなるのではないか。(4)歴史書や伝記のなかで語られる出来事は、たいていの場合、事実や解釈が統一されている。だから物語は決まった筋道で、論理的に展開し終結する。しかし(___5___)で、全員が同じ記憶、同じ解釈しか持てないとしたら、どこか味気ないものを感じてしまう。想像にすぎないが、極端な管理社会では、個人の記憶さえも画一化されていたのかもしれない。
その人だけが持つ記憶があり、その人からしか聞けない思い出がある。食い違ったり誤解したりしながら、それをまた語り直していくことも、人間の豊かさの一つなのかもしれない。そう考えると、成立しなかったように思えた父との記憶のやりとりも、私たちにしかない関係の一つだったと思え、少しだけ心が和らぐ。