石棺墓は、見晴らしのよい場所で単独で見つかっていることなどから、佐賀県は当時の有力者のものと見ています。
現地では、5日午前10時から内部の調査が始まり、4枚の石のふたのうち3枚を重機を使って持ち上げました。
佐賀県文化課文化財保護・活用室の白木原宜室長は「弥生時代赤色の顔料を使うとなると、副葬品を持っているような有力者の墓が多い。どういうランクの人が埋葬されていたかのヒントになる」と話しています。 吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代後期の有力者の墓が見つかっていません。 佐賀県では、今後2週間ほどかけて墓の内部を調査し、副葬品がないかなどを調べることにしていて、邪馬台国が存在したとされる時代の新たな手がかりの発見につながるかが注目されます。
ふたはあわせると全長2メートルほどあり、表面には「×」などの交差した線が無数に刻まれています。 交差した線は規則性がなく、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。 弥生時代の絵画に詳しい奈良県立橿原考古学研究所の橋本裕行特別研究員は九州北部の弥生時代の墓からは、副葬品として、「邪悪なものを遠ざける」と信じられた「鏡」が多数見つかっているとした上で、「鏡と同様に『×印』にも邪悪なものが侵入することを防ぐという意味合いが込められていると考えることもできる」と話しています。 また「規則性がないことからひとりの人間が刻んだと考えるよりは、入れかわり立ちかわり1人ずつ刻んでいったということも考えられる」と話しています。 佐賀県文化課によりますと、こうした「×」のような線が弥生時代の墓で見つかるのは極めて珍しく、全国でも吉野ヶ里遺跡に近い佐賀県内の遺跡「瀬ノ尾遺跡」と「二塚山遺跡」の2か所だけだということです。 佐賀県文化課文化財保護・活用室の白木原宜室長は「死者を葬る際、この地域に共通した儀礼があったのではないか」と話しています。
こうした印は別の2枚のふたの表面にも刻まれていて、埋葬した際に何らかの意図を持ってつけられたとみられています。 白木原宜室長は「印が内側から確認されたのは初めてだ。印に『封じ込める意味』があるのならば、なぜ内側に向けられているのかなど、当時の葬儀のあり方を考えるうえでのヒントになる」と話していました。 また、内部から赤で塗られたような跡が見つかったことについては「弥生時代赤色の顔料を使うとなると、副葬品を持っているような有力者の墓が多い。どういうランクの人が埋葬されていたかのヒントになる」と話しています。
石でできた墓=石棺墓のふたが見つかったのは遺跡のほぼ中央部にある区域で、広さは4200平方メートルほどあり、去年、発掘調査が始まるまでは、神社があったため手つかずとなっていました。 歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側で小高い場所にあることから、考古学ファンの間では「謎のエリア」と呼ばれ、貴重な発見があるのではと注目されてきました。 ふたはこの区域の中でも最も高く、見晴らしがよい場所にあり、有力者の墓ではないかという、専門家の見立てにつながっています。
墓のふたには無数の「×印」
ふたの裏側にも「×印」確認
ふたが見つかったのは「謎のエリア」