去年まで岩手県陸前高田市で市長を務めてきた戸羽太さんは、この強い思いを胸に東日本大震災からの復興に取り組んできました。
最大17メートルの津波が押し寄せ1800人以上が犠牲となった陸前高田市。
壊滅したまちを復興させるという前例のない難しい“決断”を重ねてきた戸羽さんは、市長を退いたいま、みずからの経験を今後の防災や能登半島地震の被災地の復興に役立ててほしいという思いを強くしています。
(盛岡放送局 記者 天間暁子)
初登庁の26日後に…
戸羽さんは、東日本大震災が起きる直前、2011年2月に行われた陸前高田市長選挙で初めて当選しました。
当時46歳。東北の75の市で作る東北市長会では最も若い市長でした。
東日本大震災が発生したのは初登庁の26日後。
3月11日午後2時46分。
戸羽さんは市役所の市長室にいました。
(2011/3/13のインタビューより)
「あの日は、いったん市役所の外に出ましたが津波が来るということで、屋上に出て、そのあと屋根に移動し、なんとか助かりました。市役所が壊滅的な被害を受けたため、市民についての情報が分からない状態です。今後は多くの人たちの協力を得て生活に必要な食料なども確保していきたいです。いまは復興というより、1人でも多くの市民の命を救いたいというのがいちばんです」
妻が行方不明に それでも救助活動を…
あの日から13年。
当時のことを戸羽さんは「絶望を感じた」と振り返りました。
「いつか地震・津波は来るだろうと言われていて、私たちもそこに備えていたのは確かですが、まさかあんなまちを壊滅させるような大きな津波が来るとは言われていませんでしたから、全く想定外でした。復興するとか新しいまちのイメージなんていうのは出てこなかったですね。生まれて初めて絶望っていうのを感じた。絶望ってこういうことを言うんだって初めて分かりました」
「何より自分は市長になったばっかりで、もうとにかく自分の自信のなさに潰れそうなところはありました。市民の期待・負託に応えられるんだろうかという思いもありました」
陸前高田市では、市役所の庁舎も津波で壊滅的な被害を受けました。
戸羽さんは別の建物に設けられた災害対策本部で対応に追われました。
発生から1週間後の3月18日。戸羽さんは大きな決断をします。
まだ行方が分からない人が多いなかで、救助を中心とした活動を打ち切ることにしました。
実はこのとき、戸羽さんの妻も行方が分かっていませんでした。
妻がいる夫としての気持ちを抑え市長として下した苦渋の決断でした。
「自分にも家族がいて、妻からしたら、あなたは夫でしょうというのがあるはず。そういうことを冷静に考えちゃうと、何やってんだよという思いもありました。でもだからこそ、自分は市長だ、頑張れるところを頑張らなきゃいけないというのはありました」
「例えば、捜索を打ち切りますというのは、聞きようによっては『もう生きている人はいないと判断しました』みたいに聞こえるわけですよね。ただ、専門的な知識を持った、経験を持った方々のアドバイスの中で(救助活動打ち切りの)私の言った決断が皆さんを傷つけるかもしれない。けれど、生きている人もいるわけですよね。だからそこが難しいんですよ、復旧復興って。自分としては心の中では(妻に)生きていてくれよ、生きていてくれよって、ずっと思っていましたけど…」
ゼロからの街づくり
復興を進める中で、最も大きな決断と振り返るのが中心部の土地を10メートル以上かさ上げするという大規模工事でした。
山を切り崩して高台に住宅地を造成し、それによって出た大量の土砂を巨大なベルトコンベヤーで中心部をかさあげ。
ゼロからまちを作るという計画です。
しかし、工事は想定通りには進みませんでした。
2012年11月に着工し、すべて終わったのは9年後の2021年3月。
莫大な費用と時間を費やしましたが、終了を待てずに別の場所に家を再建した人もいて、「時間がかかりすぎた」という批判もありました。
それでも戸羽さんは「命を守れるまち」にするためにはやむをえなかったと言います。
「陸前高田の場合は歴史上何回も津波にやられている。そのたびにみんな泣いているわけじゃないですか。もう二度とこういう思いをさせちゃだめだと。われわれの代ではなく、先の人たちのことも考えて、これから先、陸前高田市で暮らす人たちのことまでやっていくのが、われわれの責任だという思いはありました」
「復興の目的はいちばんには安全なまちを作ることが大前提だと思います。空き地もいっぱいあるし、時間もかかりすぎたと批判されますが、その答えは、来てほしくないけど次の津波が来たときにきっと答えが出るというふうに思っています」
後悔しないように
2023年の選挙で敗れ、戸羽さんは、就任直後から約12年にわたって続けてきた復旧・復興の指揮を終えました。
その後、未曽有の大災害からの復興の先頭に立ってきた戸羽さんには、各地から講演の依頼などが相次いでいます。
必ず呼びかけるのは「備え」の大切さです。
「私が唯一皆さんに言えることは、減災とは、後悔を減らすことです。津波から逃げて体育館に避難しました。助かった、そこまではいい。ただ、夜になって電気がつかない、外は雪が降っていて寒い。逃げる時に上着を持ってくればよかったな。腹が減へったな、何か持ってくればよかったなと、全部後悔じゃないですか」
「究極の後悔は家族を亡くすことです。災害が起きた時に何が必要か想像して、後悔をしないでほしい。ぜひ皆さんには、震災あるいは災害が起こる前の時点でどう備えるかということを考えていただきたい」
能登の被災地に伝えたいこと
2024年1月1日に起きた能登半島地震について聞くと、戸羽さんには、これからの復興に向けて参考にしてほしいことがあると、ある事業に込めた思いを話してくれました。
大津波に流されずに残った「奇跡の一本松」の保存と復元です。
この事業を巡っては、まだ避難生活をしている人も多い中で、多額の費用がかかることに反対の声もありました。
それでも戸羽さんは、全額を募金で賄うことで復元につなげました。
震災の教訓を後世に伝えるとともに、人々の希望のシンボルとして一本松が必要だと考えたからです。
「陸前高田の名前を忘れても、あの奇跡の一本松の場所ですねって覚えてもらう。そのことによって、商売もやりやすくなるかもしれないし、観光の人も来てくれるかもしれない。これは何が何でも、みんなに批判されても反対されても絶対残すべきだと、私は思ったんです」
「(発生後すぐは)あすのことも考えられない、ましてや1週間後、1か月後の自分がどうなるかなんていうのは想像もつかないと思います。われわれもそうでしたから。でも、その1年後、2年後、5年後みたいなことを考えられるように方向づけてあげないと、人って生きがいがないのに生きているって本当につらいことだと思うんですよ」
「奇跡の一本松を残したり、高田松原に松の木をまた植樹して再生させようとしていますが、それは陸前高田市民のプライドなわけです。輪島の朝市の風景などは、現地の人たちの脳裏に焼き付いているはずなんです。そこが日々再生されていくことが、自分たちの希望につながる。だから私は皆さんのプライドとか、その脳裏に焼き付いているようなふるさとの印象とかっていうところは大事にするべきかなと思います」
そして、復興を進める難しさを知るからこそ、呼びかけたいことがありました。
「こんな町にしていこうということが、これからだんだん言われていくんだと思うときに、外部の人たちが、その考え方についてよいとか悪いとか言ってしまうと、私は絶対ダメだと思うんですよ」
「やっぱりそこに住む人たちの考えはみんなで尊重しながら、それを具現化するために自分たちがどんな応援ができるかということを考えていただくのが、一番被災地としてはありがたいのではないかと、私は思います」
(3月8日 おばんですいわて 放送)