私の知っている寿司屋の若い主人は、亡くなった彼の父親を、いまだに尊敬している。
我所認識的壽司店年輕老闆,至今仍然敬仰已故的父親。
死んだ肉親のことは多くの場合、美化されるのが普通だから、彼の父親追憶もそれではないかと聞いていたが、そのうち考えが変わってきた。
通常,當人們談論已故的親人時,往往會將他們理想化,所以我也以為他對父親的記憶是這樣的。
高校を出た時から彼は父親に寿司の握りかた、飯のたきかた――寿司屋になるすべてを習った。
父親は彼の飯のたきかたが下手だとそれをひっくりかえすぐらい厳しかったが、何といっても腕に差があるから文句はいえない。
高中畢業後,他向父親學習了成為壽司師傅所需的一切,包括握壽司和煮飯的方法。
だがある日、たまりかねて「なぜぼくだけに辛く当たるんだ」ときくと、「俺の子供だから辛く当たるんだ」と言いかえされたと言う。
他的父親非常嚴格,看到飯煮得不好吃時,甚至會把電鍋整個翻倒,但因為父親的廚藝非常卓越,他也無法提出任何怨言。
父親が死に、一人前になって店をついでみると、その辛く当たられた技術が役にたち、なるほど、なるほどと彼はわかったそうである。
然而,有一天,他再也無法忍受,便問道:「為什麼只有我被這麼嚴格對待呢?」父親回答說:「正因為你是我的孩子,我才會嚴格對待你。」父親過世後,他長大並繼承了店鋪,這時他發現,當年父親嚴格教導他的技術非常有用,他終於真正明白了其中的意義。
私はこの若主人の話を聞くたびに羨ましいと心の底から思う。
每當聽到這位年輕老闆的故事時,我都會從心底感到嫉妬。
そこには我々がある意味で理想とする父親と子供の関係があるからである。
子供はその時、技術だけではなく父親の生き方も学んでいく。
孩子那時不僅從父親那裡學到了技術,還學會了人生的道理。
自分のつくる寿司に妥協しない父親、飯のたき方ひとつにも誠意をもってやる父親の生き方を技術と同時に習っていく。
父親對自己製作的壽司絕不妥協,連煮飯這樣的小事也全心投入——這樣的生活方式隨著技藝一同被傳承下去。
それが本来、父親というものだ。
私がこの若主人を羨ましいと思ったのは、私には、自分の息子にそのような技術が教えられぬからだ。
我會嫉妒這位年輕的老闆,是因為我無法把那樣的技能教給自己的兒子。
私は小説家だが、息子は別の道に進むにちがいない。
私が今日まで習得した小説を書く技術を彼に教えることはできない。
今の多くの父親も私と同じような哀しみを子供に持っているにちがいない。
自分が習得した技術を子供に教えられぬ哀しみ、あるいは教えるべき技術を持たない哀しみが心のどこかにあるにちがいない。
そして子供にとっても父親はそれによって、自分が将来を生きる知恵を伝えてくれる師ではなく、ただ煙ったい存在か、友人のようなパパにすぎないのであろう。
せめてそれなら子供に自分の趣味を吹きこもう。
ツリの好きな父親は子供にツリを、レコードの好きな父親は子供にクラシックを、薔薇づくりの好きな父親は花のつくり方を子供に教えようとは思うことがあるが……。
遠藤周作『勇気ある言葉』毎日新聞社による